弟子と信者の種々相 (上)

常識を土台とせよ

ある宗教団体で、二千組もの集団結婚が、教祖の霊感的指名によってなされて有名?になつたことがあるが、これを常識線上のものとは思えない。熱心ということと狂信は全く違うはずである。それは常識を土台にしているかどうかである。常識とは、個人生活と社会生活が幸福とか価値あるあり方というものを目的として適度な調和をもたらす考え方のことである。学校教育はこの常識を教えるものと云えよう。又そうあって欲しいものである。

一方宗教は、幸福生活にあきたらず、人間としての最高価値を求めてひたすらに求道するものである。しかし、幸福を求める一般社会生活を否定したり、それから逃避したりするものではない、一般の人々がそれを求めることを充分に尊重しつゝ、巳はそれを求めないということである。仏教徒の場合仏教徒の人間価値の求道であり、それは充分に練られた釈尊の知・信・行という方式に従う学習求道をするのであるから、自已流の狂信になることはない。そこで私は釈尊仏教についてはこう定義する。

 真実の仏教とは常識を土台とした超常識

こゝで真実の仏教、あるいは釈尊仏教と限定するのは、日本では、仏教が導入された初期の段階において、鎮護国家、つまり国家の安泰を祈るということを主たる内容とするという、いかにも古代国家の要請に合わせたものだったからである。中世になると山岳修行の山を神とする神道方式と習合したり、神社信仰と混合したりして、釈尊仏教の明確な知・信・行はさっぱり現われない。鎌倉時代にようやく、親らん、道元、といった優れた祖師方が、個の救われ、覚りといった本来のあり方を明確にした。

それはいわば個の純粋確立である。しかしそれは求道者の道、徹底者の道であって、一般信者の道ではない。家庭人としてあまり欲に走らない、浄福、人間らしい道というものが説かれるようになるのには徳川時代、慈雪尊者まで待たねばならない。尊者は「十善法話」を現わして、在家のあり方を説く。

徹底と未到が説かれるようになるためには、社会全般が近代化されねばならない。封建社会という、武士中心のいわば管理者主体の社会構造では、一般人は虫ケラのような存在とされてしまうから、その一般人は自己の意志で幸福を築き、自已価値に目覚めるといったことは許されない。そうした体制の中で求める信仰は常識的是非を一つ飛び超えた救われを求めるものとなり易い。

釈尊仏教は、ガンジス河下流のマガダ国、商業が盛んになつた自由主義の環境に於いて展開されている。国王が宗教者にひざまづき信仰と尊敬をささげるという国家権力のもう一つ上にあって成り立ったのが真の仏教である。それは又、国家権力が宗教そのものを価値あるものとして認めることであるから、信者の宗教も尊重された。

日本のように宗教をつねに国家的権力体制に組みこんでしまい、政治的安泰の一翼を荷わせるというようなことはなかった。こうした全くの信教の自由、個人生活のおゝらかさの上において、常識を土台とした宗教が成立する。四百人という集団自殺をもたらすというのは、全く常識が働く環境ではなかったということであろう。こうしたいわば信仰の犠牲者に対して冥福を祈ると同時に、真の在家道というものを明確にせねばならぬという釈尊仏教徒の使命を痛感する次第である。
(浄福 第63号 1978年12月1日)    田辺聖恵


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