桃水和尚

勤労の聖僧 桃水 #25(5、住職時代 その六)

利欲行為に基付いて観るならば、聖僧は、寺格の高い寺への転住を希むが如き凡僧ではない筈である。また、残りの一つの名欲に基付いて観るならば、法巌寺に止まっていた筈である。然からば、なぜ、聖僧は、転々と己の生活環境を変えたか、それに就いては、誰…

勤労の聖僧 桃水 #24(5、住職時代 その五)

3、さて、聖僧の年令は、法巌寺住職当時は、44、5才、若し現代人に対して肉体的の比較をもって臨むならば、それは現代人の47、8才の年頃に当たるであろう。聖僧は『晩成型』の人である。この見地からいえば、現代の普通人の30、4、5才の頃、或い…

勤労の聖僧 桃水 #23(5、住職時代 その四)

聖僧は二大都市の一つの、大阪にいること二年にして、山間僻地の、肥後南郷に移っている。それから、南郷にいた時は、支那から長崎へ渡って来た隠元禅師を同地に訪ねて行って会っている。それから、故郷、筑後、柳川へ帰り、それからまた、肥前島原の青雲寺…

勤労の聖僧 桃水 #22(5、住職時代 その三)

聖僧の正直な告白によって、事件は笑い事になってしまったものゝ、住職一同は、面目を失ってしまったものだから、厳しそうな奉行所からの帰途、こんどは、聖僧の愚直さを、口々に非難して止まなかった。一同は、苦笑はしたのだが、同時に、眼を怒らした。 そ…

勤労の聖僧 桃水 #21(5、住職時代 その二)

元来、檀家の、仏に対する信仰的態度並びに僧侶に対する布施態度は、一般的にいって寔に、適正に布施心理に於いて、証明せられている。概括的に、その布施心理を掲出すれば、次ぎの如きものとなるであろう。 (イ) 家内安全、無事息災のために。 (ロ) 商…

勤労の聖僧 桃水 #20(5、住職時代 その一)

五 住職時代 その翌年―即ち、万治元年、能登の総持寺(曹洞宗二大本山のその一つ)で輾衣の式をすました聖僧は、直ちに、大阪の法巌寺に行って住職になっている。前述の嗣法や輾衣やが、聖僧に取っては、自発的なものであったか、それとも恩師宗鉄禅師に勧め…

勤労の聖僧 桃水 #19 (4 修業時代 その四)

伝えらるゝところに依れば、聖僧は、油単を背負うた笠杖黒衣の姿で、陸路を通って、東海道を江戸へとのぼり、神田台の吉祥寺学寮に掛錫したとある。 現在は、吉祥寺は駒込にあるが、聖僧の行脚時代にはまだ神田台にあって、江戸四ヶ寺の一つであり、従って、…

勤労の聖僧 桃水 #18(4 修業時代 その三)

田中氏は、決して、それを根本的動機と観られておられる訳ではないが、それとは別に、想像上に、二つの謬りを犯しておられる。その一つは、『難行苦行を必然的にせざるを得なかったその裏面には深い深い苦悩があったに違いない、他には打ち明け難い心の痛み…

勤労の聖僧 桃水 #17(4修業時代 そのニ)

ところが、前述の如く、人間を教えるということは却々難しいものである。流石に、宗鉄禅師にしても、教える順序を間違えてしまったと見えて、次のような出来事が起った。 斯くてのち聖僧は15、6才になった。 少年聖僧桃水は、或る時は、三日間断食をした…

勤労の聖僧 桃水 #16(4、修業時代 その一)

四、修業時代 偉大なる人物に於ては、『修業時代』或いは、『卒業時代』などの区別はあろう筈はない。彼の生涯は全部的に『修業時代』であろう。しかし、私は便宜上の区分から、第四章に『修業時代』という題名を附して、新しく筆を染めることにする。 田中…

勤労の聖僧 桃水 #15(3、聖僧の幼年時代 その五)

聖僧に就いての逸話の一つとして次の如きものがある。 或る年の梅雨の頃の出来事である。黒の衣を纏うた少年聖僧桃水は、手には美しい葵を持って、何をすることもなく、橋の上に佇んでいた。すると、折柄、檀家の一人が通り掛った。その人は、聖僧の五体とは…

勤労の聖僧 桃水 #14(3、聖僧の幼年時代 その四)

その次ぎに、幼年聖僧桃水に強い影響を与えたものゝ中の一つとして、私は、聖僧に対する隣人の態度の変化を挙げたい。 茲で『隣人の態度の変化』というのは、桃水の、故郷、柳川の生家に於ける兄弟近隣の住民たちと、現在の円応寺に於ける弟子たち、近隣の住…

勤労の聖僧 桃水 #13(3、聖僧の幼年時代 その三)

さて、聖僧は、7才の時、肥前、武雄の禅林寺へやられた、宗鉄禅師に就いて得度することゝなったのである。 前段に説述したるが如く、肥前、武雄は筑後の柳川からは20余里離れたところにあった。誰に連れられて行ったかは不明であるが、歩いて行ったのであ…

勤労の聖僧 桃水 #12(3、聖僧の幼年時代 その二)

如何なる傑出した人の場合に於ても、必ずしも、その傑出した人は既に少年時代から、後世その名を顕す方面の仕事を望んでいたものとは限らない。否、むしろ偶然の幸福に恵まれる者の方が多いのである。 聖僧の場合にしても、決して、その出家は自発的なもので…

勤労の聖僧 桃水 #11(3、聖僧の幼年時代 その一)

三、聖僧の幼年時代 聖僧の稍々正確なる最初の伝記者たる面山禅師は『母異夢ヲ感ジテ師ヲ姙ム』と誌しており、今一人の伝記者は『其母人は、或る夜不思議の夢に異僧が来て、我が腹中に入ると感じ、それよりこの聖僧を孕む』と誌しておるが、斯かる一節は、何…

勤労の聖僧 桃水 #10(2、環境 その五)

私は次には、この地方の人々、聖僧の父母、幼年時代の聖僧に与えた、宗教的影響に就いて考えてみよう。 筑後に於ては、仏教上の影響に就いては特筆すべきものはないが、九州一円の地が多かれ少なかれキリスト教を受け入れたことは、特筆大書に値するであろう…

勤労の聖僧 桃水 #9(2、環境 その四)

聖僧の誕生地、柳川(或いは柳河と称す)は、筑後国に於いては、『久留米絣』で知らるゝ久留米市に次ぐの大邑で、筑後川の左岸にある。邑中を貫いている川は、矢部川の支流、置端川であり、西南一里近くのところに見ゆるは有明海である。四方、二、三里とい…

勤労の聖僧 桃水 #8(2、環境 その三)

これに拠ってこれを観るならば、胎教は如何に必要なものであるかという事が読者に分かるであろう。故に、私は、若し、読者から許されるならば更に一歩を進めてなぜ、姙婦の精神状態乃至精神生活は斯くの如く胎児に影響を与えるであろうかという問題に就いて…

勤労の聖僧 桃水 #7(2、環境 その二)

若しまた、胎教に就いての、世に知られている言葉を挙げて、読者に胎教の重大性を強調するならば、次の如しであろう。 『小学』の烈女伝にはこう書いてある。―『古、婦人子を姙めば、寝るに側せず、坐するに辺せず、立つに蹕せず、邪味を食はず、割して正し…

勤労の聖僧 桃水 #6(2、環境 その一)

二、環境 私は前段に於いて、聖僧の生年月日は何人の手をもっても伝えられてはいるまいが、この人の遺偈に、『七十余年快哉、屎臭骨頭作何用、?記真帰処作麼生、鷹峰月日風清』とあることゝ、聖僧の死去した年は天和3年であったことから想像した上に聖僧の…

勤労の聖僧 桃水 #5(1、遺伝 その五)

その別の新しい質問というのは、即ち次の如しであろう。 桃水伝最初の著者として知らるゝ『重続日域洞上諸祖伝』から始まって今日に至る迄の、聖僧に対するその伝記者諸家の説に拠ってそれを観るならば、前述の如く、聖僧の父母は浄土宗の信者となっているが…

悪戦苦闘

自分でやりだしたものの、漢字が読めない、辞書を引く、思っても見なかった手間に戸惑っています。文章が長い。どこで切れるのか、まだかまだかと呆れています。内藤辰雄氏の文体なのか、プロレタリア文学者の文体なのか、まいりました。入り口で泣き言言っ…

勤労の聖僧 桃水 #4(1、遺伝 その四)

こうなって来た場合には、宮崎氏の採られて然るべき態度は二途以外にはないことになってくるであろう。即ち、宮崎氏のお採りになるべき一つの途は『代々、商家であった』ものとして、世に紹介するに当って、『代々』の二字を抹殺して、以て桃水の父母の持っ…

勤労の聖僧 桃水 #3(1、遺伝 その三)

聖僧の,籍を置いていた、曹洞宗の面山禅師でさえもが、その著『桃水和尚伝賛』に於いて『事実ノ前後、少異アルベキコトハ必定サレドモタダ聞認シタルママニ記スモノナリ』と心細いことをいっている位で、この聖僧の家系や父母の姓名、兄弟の有無は誰にも分…

勤労の聖僧 桃水 #2((1、遺伝 その二))

遺伝に就いていえば、父母から受ける遺伝もあれば、祖父母から受ける遺伝もある。或いは、十代も前の先祖から受ける遺伝もあるのだから、その点に就いての注意は忘れてはならぬであろう。即ち、聖僧は商家に生まれたとしても、父母の人と為りを受け継いでい…

勤労の聖僧 桃水 #1(1、遺伝 その一)

勤労の聖僧 桃水 内藤辰雄著 1、遺伝 世に『乞食桃水』といわれている、この聖僧の生年月日は明らかにされていない。明らかにするべき資料を、誰しも持っていないのである。しかし、恐らくは、慶長4、5年頃から同14、5年頃迄の間に生まれたものであろ…

種本紹介

内藤辰雄著 勤労の聖僧桃水です。この内藤辰雄なる人物がよく分かりません。プロレタリア文学作家で、内藤陳の父親という程度しか知りません。桃水を書いた人で有名なのが宮崎安右衛門、「野聖乞食桃水」「野聖桃水和尚」という名でかなり版を重ねていたよう…

乞食桃水

あまり名の知れた人物ではないが、とてつもない人です。実在を疑われたこともあったようですが、それはないようです。旧仮名使いの昭和初期の本を何冊か持っているので、いつの日か現代文にしてみたいと思っていました。挑戦開始といきましょうか。読みやす…