勤労の聖僧 桃水 #19 (4 修業時代 その四)

伝えらるゝところに依れば、聖僧は、油単を背負うた笠杖黒衣の姿で、陸路を通って、東海道を江戸へとのぼり、神田台の吉祥寺学寮に掛錫したとある。

現在は、吉祥寺は駒込にあるが、聖僧の行脚時代にはまだ神田台にあって、江戸四ヶ寺の一つであり、従って、諸国から雲水が雲の如く群れ集まったものである。当時の吉祥寺は、諸国から雲のように群れ集まる雲水たちに取っては、己の持つ知見解会の試験台のようなところであった。

聖僧は、この寺院に於いて、何等かを求め得たであろうか?恐らくは、求め得たともいえるし、求め得なかったともいえるであろう。

聖僧は、その後、下谷の某寺に下錫した。寺名は伝えられてはいないが、その寺に於ける聖僧の生活の一端として次のような事が伝えられている。

その某寺では、古い板塔婆を利用して垣根を拵えていた。下僕が菜園に肥料をやるたびに糞尿がその卒塔婆に掛かる。誰もその卒塔婆を庇ってやる者はなかった。聖僧は眉に皺を寄せてそれを見ていたが、間もなく、新しい板塔婆を買って来て取り替え、態々、古いのを担いで、遠く墨田川迄行った。そしてお経を読みながらそれを川へ流した。しかし、住持は、その事をまだ知ってはいなかった。或る日のことである。住持は菜園に来てみると、何時の間にやら、糞尿の掛かった板塔婆は見えなくなって、新しい塔婆が替わっている。住持は、廊下に立っていた小僧をつかまえて、『どうしたことじゃ』と訊いてみると、答えは意外で、桃水がお布施の金で新しいのを買って来て古いのは川へ流したのだとの事である。

そこで、住持は、面目なく思ったのであろう、残りの古塔婆を悉く川へ流させてその跡には高塀をしつらえた。そのことがあってからというものは、下谷辺の曹洞宗のお寺のどこを見ても、古塔婆の垣は見えなくなったとのことである。

詰まり、聖僧の心のまことより出た善事が、多くの人の心のまことをうごかしたのである。善事は善事を生む。

蓋し、人の性は善というべきであろう。

当時の日本に於ける仏教はどうであったかといえば、徳川幕府は色々の政策上から仏教に対しては過分の保護を与えて、これを国教扱いにした。従って、寺院に対しては、寺領や爵録を与えて、寺院の維持と僧侶の面目を保たせた。僧侶たちは、国民の教導職となり、別に一種の戸籍吏の役目をさえ勤めた。僧侶が戸籍吏であったというと変な話のようであるが、徳川幕府は、切支丹の徒は一人もこの国に入れないと『踏絵』の制度を設定して、初めは、毎年九州方面に於いてのみこれを試みていたが、間もなくこれを全国的に施行した。のみならず、更めて『宗旨人改め』ならびに『寺請制度』なるものを制定した。全国民は明確に或る寺院の檀家であることを要する。全国民は、若し旅立ちをする場合には、何寺の檀家であることを明らかにする『寺請証文』なるものを持たなければならぬ。幕府は、寺請証文を持たぬ者に対しては、関所を通さぬというのが寺請制度である。

また、幕府は僧侶に対しては学問を奨励したゝめに、諸方に観学院、学寮などが出来て、僧侶の学問の盛んになったことは、従来にその比を見ぬ位であったが、それと同時にまた一方に於いては、宗派間の確執と嫉妬は甚だしいものになっていたのである。そして、当時の江戸で最も盛んなる勢力を持っていたのは、一向宗が第一位であった。浄土宗は将軍家を大壇越にもっていたゝめに、一向宗と伯仲の間にあった。この両派に次いで勢力のあったのが、日蓮宗で、 真言宗天台宗禅宗などは余り揮わなかった。

聖僧はこの江戸にどれ程の期間滞在していたか。それに就いては、正確なる記録は伝えられていない。その滞在期間に就いては、宮崎氏は、ただ一時のことであったといって居られる。そして、聖僧は腐敗、堕落した都会の生活を観て、呆れてあっさりと引き揚げたものかの如く読者に想像せしむるように書いておられ、田中氏は、その宮崎氏の御想像に対しては反駁的態度に出ておられる。田中氏はいわれる。『―しかし(桃水)は、後日の彼の生活が明らかに示しているように、不思議なほど都会的生活を嫌忌してはいない。後に、彼は大阪の法巌寺の住職になっているばかりでなく、その晩年を京都の地に於いて送っている』

田中氏は、上掲の如きところに、その反駁の論拠を構えておられる。私は、その反駁論拠には賛成するが、しかし、田中氏の持たれるその説、例えば、桃水は江戸を修業の根拠地としていたであろう、幾度か江戸を立ち去り幾度か江戸へ来たであろう―などには、直ちには、賛成しない。

『方便和尚』面山禅師の伝えるところに依れば、聖僧は、この修業時代に於いて、沢庵禅師、大愚禅師、愚堂禅師、雲居禅師、正三禅師などの禅室に参じている。これらの禅師の中の一人、雲居は、当時松島の瑞巌寺に住んでいたから、聖僧は、日本三景の一つである松島見物をも兼ねて、仙台に赴いた、とすれば、帰りにはも一度江戸に寄っている、かも分からないが、私は、田中氏の言われるように、幾度も江戸を中心にして往来したものゝようには考えない。そのことは、当時の交通事情に徴してみてもちょっと考え難いことでもあるが、それ以上に、それ程江戸に執着を持っていた者が、なぜに、晩年を京都に送ったであろうか?私は、如上の疑問を持たざるを得ない。

ともあれ、私は茲で一つの重要なる問題に触れて置きたい。それは、聖僧はどんな肚でそんな禅室に参じたかという一事である。もちろん、その参禅の目的は、仏教上の研究と諸先輩の生活態度に対する観察との二大綱から成り立っていたであろう。しかし、聖僧はその何れをその目的上の主人の地位に置いていたかに就いて考察することは重要である。私の考察に依れば、明らかに、後者である。何となれば、聖僧は、晩年に於ける自己の生活をもって、僧侶の生活を否定しているではないか!

聖僧は、晩年に於いて、『行脚の当時、名利閙し』といって、行脚時代に見た僧侶生活を否定する以上に軽蔑している。

聖僧は、この行脚生活に失望した。そして、聖僧に、敬慕の情に於いて思い出されたのは、寧ろ、肥前、武雄、円応寺の宗鉄禅師であった。人情重厚主従一体の美風を持つ鍋島藩の領地であった。

聖僧は、再び、故郷へ帰って来た。私は、その時聖僧は34、5才であったと想像することが出来る。

当時、宗鉄禅師は、円応寺にはいなかった。

禅師は、肥後の熊本、長流院の住持になっていた。

聖僧は、この長流院で宗鉄禅師に仕えること10余年の長きに及んだと伝えられている。その間の聖僧の行動に於いて注意すべきは、承応3年、長崎に来たった支那の禅僧隠元に長崎で会っていることゝ、明暦3年、恩師宗鉄の禅室に入って、仏祖正伝の法を嗣いでいることであろう。前者の行動に於いて想像せらるゝことは、聖僧の胸中、宗門或いは禅門改革の雄志があったであろうということであり、後者の行動に於いて想像せらるゝことは、宗鉄禅師の学殖ならびに人格は相当に大なるものであったということである。