勤労の聖僧 桃水 #23(5、住職時代 その四)

聖僧は二大都市の一つの、大阪にいること二年にして、山間僻地の、肥後南郷に移っている。それから、南郷にいた時は、支那から長崎へ渡って来た隠元禅師を同地に訪ねて行って会っている。それから、故郷、筑後、柳川へ帰り、それからまた、肥前島原の青雲寺の住職になり、次には、時の領主高力左近太夫隆長を大檀越と為す島原禅林寺の住職となり、間もなく、華々しく法幡を掲げて大和尚の地位に就いている。そして、それを最後として、完全に所謂僧侶生活を打ち切って、その後は、ちょっとの間、乞食の仲間に入っているが、間もなく、草鞋作り、或いは酢造りなどの勤労生活に身を落ち着けている。それから、死ぬ迄、勤労生活を続けている。―
 
斯かる行為に於いて見らるゝものは、先に行為の変化が生じ、その後から心境の変化が生じたものであるか、先に心境の変化が生じ、その後から行為の変化が生じたものであるかは論ぜず、とにかく、斯かる行為の変化に伴うものは心境の変化でなければならない。そして、聖僧の生活に於いて見ゆる、斯かる心境の変化は聖僧の、不変の処世態度の確立完成に未だしのところのあることを想像せしめる。
 
ところが、一方に於いては、聖僧の生活に前述の如き行為の変化が見ゆるにも関わらず、一方に於いては、不思議なことには、永遠不変の行為が見受けられる。その永遠不変の行為は何であるかといえば、孔子の『仁』といい、基督の『愛』といい、仏教の『慈悲』というところの行為がそれである。
 
そして、聖僧の生活に於いて見ゆるその一定不変の行為は既に不変の処世態度の確立を想像せしむるものでなければならない。
然からば、聖僧は、既に、法巌寺住職当時に於いて、一定不変の人生観ならびにそれに基付く処世態度を確立していたものであろうか否か?
 
私は、それに就いては、既に確立していたと想像する者である。何となれば、前掲、聖僧が慧定に与えた偈を見るがよい
 
私は斯く想像する。
 
1、常識的観察からするとも、聖僧は轉衣の式を行って一寺の住職となった、とすれば、対世間的なる責任上から観ても、自己の権威、面目を保とうとする、人間的共通感情の方面から観ても、一家の不変的なる人生観ならびに処世態度を確立する必要があったはずである。
 
2、聖僧の人と為りは、面山禅師の伝うる『資性聡利、容貌魯鈍に似たり』の一語で窺える如きものであった。斯かる印象を与える人の聡明さは、その人を聡明と想像する人の想像以上に聡明なるものである。詰まり、聖僧は、想像以上に聡明なる人であった。その聖僧は、幼にしては、宗鉄禅師の懐中にあって親しくその薫陶、鞠育を受けている。そして、この宗鉄禅師は、宮崎安右衛門氏の御紹介に依れば、大徳にして希代の学者であった。宮崎氏の御紹介のお言葉を多少誇張的な言葉と、解釈する者にしても皆、宗鉄禅師に就いては、相当の学者であったと認めておられる。桃水は、仏道修業時代には、当時、天下に高名なる沢庵禅師を初めとして、大愚、愚堂、雲居、正三の諸禅師に就いて親しく参学している。のみならず、上述、諸禅師の誰からも嗣法せずして、帰郷宗鉄禅師の法を嗣続している、としてみればこの一事は、われわれをして如何なる事を想像せしめるか、即ち、桃水は、既に、その事ある以前より、一家の人生観ならびに処世態度を把握していたものに相違ない。或いは厳格にいうならば、未だ自然科学的知識、社会科学的知識の発達していなかった昔のことであるなら、その時代の人の人生観は、現代人のわれわれからそれを観ていえば、それは纏まったものとはいえぬであろう。しかし、昔と雖も『人生』という人間の生活事実がなかった訳ではなく、当時と雖も人間の生活事実はあった、してみれば、昔に於いても、人は、その生活事実をどんなふうにか見ていた、どんなふうにか考えていた。そして、その考察に基付いて、更に処世態度を『斯くあるべし』と理想していた。仏教に人生観があり、倫理観のある所以である。そして仏教に見ゆる人生観、倫理観などは、永遠不変の真理として、われわれの認むるところである。それは『人生』という生活事実に永遠不変なる点があるからである。哲学の方面からいえば、『世には永遠不易なるものはないということのみが永遠不易の事実である』ということも出来る。何となれば、哲学上からいえば、『宇宙には、同時という事実、或いは、同一という事実はない』
 
しかしながら、われわれは、茲で、そんな理屈をいってはならない。茲では、実用的な理屈を述べなければならない。実用的な理屈、謂わば、常識からいえば、人生には永遠不変の点がある。仏教の所謂『生者必滅、会者定離』これは永遠不滅の人生事実である。弱肉強食の生活事実、これもまた、永遠不変の生活事実である。隣保相扶の生活事実、これもまた、永遠不変の生活である。
 
如上の如くであってみれば、仮に、現代のわれわれの批判に於いては、厳格にいって、『人生観』とはいえないものであったとなすとも、聖僧に人生観のなかった筈はない。殊に、『人生観』に於いては、人生に於ける永遠不変なる点に触れることをそれの眼目としてこそ、そこに価値が認められ、永遠性、融通性が認めらるゝものである。私は、その意味に於いて、聖僧に於いては、既に、帰郷、宗鉄禅師に就いて嗣法した以前から人生観ならびに処世態度が確立していたと想像する者である。別に、私に皮肉な言い方、そして、少し意地の悪そうな言い方が許されるならば聖僧は既に7、8才の頃から人生観ならびに処世態度を確立していた。何となれば、求道的にして、余りにも正直過ぎる彼は、多く場合、釈迦の人生観ならびに処世態度を踏襲すればよかったからである。
 
とはいうものゝ、聖僧の倫理観ならびに処世態度は、晩年(といっても、肥前、島原、禅林寺を脱走以後、相当の年月を経てからであるが)に至って、変化していることを、私は茲に附言して置く。

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