勤労の聖僧 桃水 #24(5、住職時代 その五)

3、さて、聖僧の年令は、法巌寺住職当時は、44、5才、若し現代人に対して肉体的の比較をもって臨むならば、それは現代人の47、8才の年頃に当たるであろう。聖僧は『晩成型』の人である。この見地からいえば、現代の普通人の30、4、5才の頃、或いは、30才の頃に当たるであろう。しかし、仮に、現代の普通人の30才の頃であるとなすとも、もう一定不変の人生観や処世態度が出来ていない筈がない。
 
しかるに、聖僧の、法巌寺住職時代を基点として、それ以後の生活行為を観るに、屡々、その環境を変化せしめている。それが何を意味しているかに就いては、前述した通りである。私は、いまだそれには触れていない。
 
田中茂氏は、聖僧に於ける、如上の生活環境の変化を考察するに当たって、―『この国の大都会である大阪と云う昌盛の巷から、肥後の山閑僻地である南郷に移り住んだ桃水は、其処で三年余りの月日を送っているが、本来なれば閑寂なるべき筈であるのに住職としての彼の僧侶生活は寧ろ煩雑になっている。前に述べたように、大阪の法巌寺に於ける彼の生活には、不気味な曰く付きの寺であっただけに、或る程度までの彼の我儘と自由とが許されていた、しかし、この田舎寺では、そうしたことが許されたとも思われない。寧ろ、彼は住職生活の最初の不自由さを、この清水寺でしみじみと味わったであろう。そして、それは長い間の彼の重荷となったが、彼はその重荷に喘ぐ自分自身のふがいなさを知りながらも、それともなく僧侶としての名利の糸に操られながら、更に、寺を換え地位を代えて住職生活を続けて行った。それと引き換えに、奇僧としての彼の名は次第に高まって来た。しかし、彼はこの時代に於いても、より善く生きんことを忘れたのではなかった。それは人知れぬ悶えとなって彼の心に蟠っていた』
 
といって、桃水の人格を普通人のそれにまで引き下ろして取り扱っておられる。これは、『乞食桃水伝』の著述に見える、田中氏の終始一貫的態度の中のその一つである。宮崎安右衛門氏の御著述に於いて見ゆるものは、聖僧に対して讃嘆を極むる抒情的態度である。それは、著述形式は、伝記になってこそおれ、中学生、女学生向きの抒情詩的なあるものと観る時に於いてのみ相当に価値の高いものである。それを、正直な田中氏は伝記として取り扱われたが故に、そこに御不満が生じたのであろう。この御不満はどこから生じたかといえば、宮崎氏の御著作品に於いては、聖僧は余りに非人間的に取り扱われていることである。そこで、田中氏は、一面に於いては、聖僧の超人的な人と為りを認めながらも、一面に於いては、常に、人間として取り扱おうとせられた。故に、田中氏の『乞食聖僧伝』を観るに、それは、多くの桃水伝中最も科学的なものであるにも関わらず、最も多くの、矛盾文章を蔵しているのである。
 
田中氏の、桃水伝著述態度に就いて想像するに、恐らくは、『超人と雖も一面に於いては人間であるから、伝記者もまた一面に於いては、これを人間として取り扱わねばならぬ』と思っているうちに、何時の間にか、『超人』と『人間』との区別が出来なくなった。それにも関わらず、なおも『人間』として、取り扱おうとなされ続けた。そこに、矛盾があるのであろう。
 
私は、それの一例として、前掲、田中氏の御文章から、その無理、矛盾を拾ってみよう。
 
例えば、ずっと以前に於いて(大阪、法巌寺住職時代)、聖僧の行乞及び布施に於ける奇特行為が喧伝せられて奇僧としての名が挙がったという意味のことを説述しておられる。同時に、その行乞及び布施に対する御感想で、斯ういっておられる。
 
『―結果から見るならば、桃水のこの行乞と施行は彼自身のためではなく、社会の下積みとなった貧しき人々のためであった。しかし実際に於いては、それは住職としての安逸に身を置くことを恐れた、より善く生きんとするその精神的の飢えを、幾分なりとも癒そうと勉めたのであろうが、要するにそれは彼自身を高きに置く、所謂慈善と呼ばるべき種類のものであった。彼もまた斯かる中途半端な慈善に依って、何程の満足も得られなかったであろう。(中略)…喝采好きな世間の人々の尊敬であったが、それは却って彼の行かんとする道の障碍であり、彼の心のに無理に背負わされた重荷であった』
 
田中氏の、この御感想に於いては、明らかに、桃水は、名利に就くことを嫌厭している聖僧である。
 
これにも関わらず、なぜか、田中氏は、清水寺住職時代の聖僧に就いて説述する場合には、上掲の如く、『それともなく僧侶としての名利の糸に操られながら、更に寺を換え、地位を代えて住職生活を続けて行った』といっておられる。
 
私は、惟う。
 
仮に、聖僧は名欲に駆られたものとする。しかし、この場合に於けるその名欲の種類は如何なる種類のものであったか、上格寺院の住職になりたいという種類のものであったか民衆からの喝采を受けたいという種類のものであったか、聖僧の性格から推して想像する場合にはその何方であろうか?そして、若し、後者だとするならば、なぜ、法巌寺から去ったのであろうか。既に、法巌寺時代には、奇特なる僧として、世間から評判せられていたのであるから、後者の如き名欲に就かんと欲する者ならば、法巌寺に止まっていた筈である。それこそ、人間的感情或いは人間的行為であろう。
 
若しまた、前者の如き名欲と観る場合には、なぜ、聖僧は、当時の、天下高名なる禅僧から嗣法せずして、宗鉄から嗣法したか、前者からの嗣法をもってするならば、必然的に寺格の高い寺の住職となれるであろうとは聖僧に想像せられた筈である。