勤労の聖僧 桃水 #11(3、聖僧の幼年時代 その一)

三、聖僧の幼年時代
 聖僧の稍々正確なる最初の伝記者たる面山禅師は『母異夢ヲ感ジテ師ヲ姙ム』と誌しており、今一人の伝記者は『其母人は、或る夜不思議の夢に異僧が来て、我が腹中に入ると感じ、それよりこの聖僧を孕む』と誌しておるが、斯かる一節は、何れも我が宗門より顕われたる傑僧を他の宗門より顕れたる傑僧と比肩せしめて飾り立てるための常套手段以外の何物でもない。

 聖僧の出家の動機に就いては、『乞食桃水』の著者、宮崎安右衛門氏は、先ず、聖僧の幼少時代の奇行に就いて、―『わが桃水は未だ東西も判別し兼ねる時分から、仏と共に遊ぶことをこの上もなく喜んだのであった。桃水に取っては夢の如く雲霧して了う此世の銭よりも、永劫に消えもせず又無くなる恐れの無い仏と共に遊ぶことが彼の心の全部を占めていたのであった』
 と叙しておられるようである。

 これは、幼少時代の聖僧に見られた奇行―聖僧は銭よりは仏像を玩ぶことを愛した―に就いて、宮崎氏が感想を述べられたものである。

 これも私の断案するところに拠れば、捏造的記事以外の何物でもない。これの出所は、聖僧の稍々正確なる最初の伝記者たる面山和尚の『桃水和尚伝賛』にある。恐らくは、面山和尚は、阿諛以外には何の能もない凡僧共から、その話を聞いた。面山和尚は、曹洞宗中興の祖といわれる位の傑僧であるから、その話を嘘だとは思ったであろう。しかし、『我が子可愛いや』の盲目から、仏家の常套手段たる『嘘も方便』を使用するはこの時だ、『さもあろうず、さもありなん』とばかりに書き留め郵便としたのであろう。世は降って、宮崎氏に至れば、『我が仏尊し』の盲拝的崇拝から、前陳の如き捏造的記事を創作せられたものか、この聖僧の自著伝記を世に贈るためには、如何にも聖僧らしい飾りを附する必要があろうという浅薄なお考えから、方便和尚面山の嘘をも、それとは反対に、如何にも真実らしく見せかけるために、文芸的潤色をお施しになったのであろう。

 苟くも、聖僧を語る場合には、自らも聖僧たる資格を自負してこそ然るべきである。さもなくんば、これを、『贔引きの引き倒し』というか、聖僧の影は頓に薄くなるであろう。如何なる方面の伝記者に対してもまた、以上は注意すべき言葉として、私は以上の言葉を贈る。

 次ぎに、文学者仲間での禅師たる宮崎氏は、方便和尚面山以上に方便がお好きらしく、面山以上に方便を使っておられる。宮崎氏は、聖僧の出家するに至った動機を叙するに当たって、―
『桃水は燃ゆるような希望を抱きながら欣然として寺へと入った、恰も水が低きに向って流れるように』
 と媚筆を喜び、恰も桃水は出家を望んで止まなかったかの如く書いて居られる。

 しかし、これも嘘である。方便である。しかも、科学的批判の進んだ今日では、骨董的価値としてさえもお安い方便である。嘘である。

 由来、聖僧、傑僧に対してのその伝記者は、如上の方便を使用するのを常套手段とする。能無しだといわれても、仕方ないであろう。

 この聖僧によく似た傑僧良寛禅師に対するその伝記者諸氏もまた、明白に嘘だと思われる嘘を、恰も、嘘だと思われたいかの如く、嘘を書いている。正に坊主の親類とは斯くの如きをいうのであろうか。否、そうであったはならない。

 良寛禅師の場合に於てもまた然りで、良寛禅師に対するその伝記者の多くは、良寛禅師の出家の動機を自発的のものと取扱って書いておられる。

 聖僧の出家は7才の時である。斯かる伝記は恐らくは嘘ではあるまい。良寛禅師の出家は18才の時である。18才という年令に基付いてみれば、『良寛全伝』の著者、西郡氏の如く、―
『因りて憶うに師は15にして元服して姓氏を称し、雙刀を帯し、一たび荘官となりて世職に試みられしも、所謂昼行燈然たる名主の若旦那にして俗務を処理して齷齪たること能わず、父母も其の資性を知り行動を見て、家道を委す器にあるずとして、且つ由之(弟)13にして成人に近づきしを以て、18の時素願を入れて出家を許したるなるべし』

 と書いておられることは、無理とは感じられないが、しかし、本人の良寛禅師は『尋思す少年の日、知らず吁嗟ありしを。好んで黄鵝の衫を着、能く白鼻の?蘢に騎る。朝に新豊の酒を買い、暮に杜陵の花を看る。帰来知りぬ何れの処ぞ、直ちに指す莫愁の家。平生少年の時、遨遊繁華を逐う。能く嫩鵝の衫を著、好んで白鼻の?蘢に騎る。朝に新豊の市を過ぎ、暮れに河陽の花に酔う。帰来知りぬ何れの処ぞ、笑って指す莫愁の家。金羈の遊侠子、志気何ぞ揚々たる。馬を継ぐ垂楊の下、客と結ぶ少年の情。一朝千金尽き、轗軻孰か後傷まん』
 ―わしは、若い時には我が家が左前で面白くなかったがために道楽をした、といっている。傑僧としての自負があったればこそであろうが、正直な者である。

 この良寛の正直な告白に拠ってみる時は、良寛禅師は、僧侶としての傑出した素質を持っていたがために、既にして少年時代から仏道に対する帰依心が強かったのではない、仏門に入ってから、その、僧侶としての傑出した素質が成長したのだという事が分かるのである。その何れにもせよ。傑出した僧侶であったことを知らしむれば目的が達するのならば、何も嘘をいう必要はないのである。

 まだしも、良寛禅師の場合は、禅師18才であったのだから、既にして、仏道に帰依する志が厚かったといつても、直ちには、嘘の尻ッ尾は掴まれないであろうが、聖僧の場合は、聖僧はいまだ7才にも満たぬ子供である。然るに、伝記者が、聖僧は出家を望んで止まなかった、といったのでは、読者は惟うであろう。『不幸にして、乞食桃水は己を伝うに相応はしい伝記者を持たなかった』と。