勤労の聖僧 桃水 #20(5、住職時代 その一)

五 住職時代

その翌年―即ち、万治元年、能登総持寺曹洞宗大本山のその一つ)で輾衣の式をすました聖僧は、直ちに、大阪の法巌寺に行って住職になっている。前述の嗣法や輾衣やが、聖僧に取っては、自発的なものであったか、それとも恩師宗鉄禅師に勧められたゝめであったかに就いては、私は、後者であったと想像する。恐らくは、余り気が進まなかったにも関わらず、恩師に勧めらるゝ儘に、恩師の愛情に酬いるために、そうした行動を採ったのであろう。

ある伝記の伝うるところに依れば、如何なる事情の下にか、同寺には、これ迄?鮭々盗賊が忍び込む。そのために住職になる人もなくて困っていた。偶々、檀家の一人に聖僧を知る者があって、聖僧に乞うて住職たらしめたとある。

私は、この伝記の正確さに就いては、どうかと思う。恐らくは、本山、総持寺からの差金に依ったのであろう。

ところで、私は、前に、聖僧は寺の住職になった、しかし、それは自発的のものではなかったであろうといったが、茲にその言葉を裏書するような一文章がある。掲げてみよう。
『法巌寺に於ける住職としての桃水は、物事に対する生来の無頓着さの故に、とかく檀家の不快を招き勝ちであった。彼は、10日余りも寺の戸を閉ざして、平気で他行することが数度もあったと云われている。しかし、前述したように、他に住持する人もない曰く付の寺であったから、檀家の者も彼に逃げられることを恐れて、陰でこそ不平の呟きを漏らしながらも、いろいろと機嫌をとって彼の永住を願うていた』(田中茂氏著『乞食桃水伝』より)

そこで、問題はどうなるか?

若し、こゝで、前掲の私の想像が否定せられた場合には、問題はどうなるであろうか?

1、聖僧は、高名なる多くの禅師の禅室に参禅したが、それら高名なる禅師の誰からも法を嗣続することを望まなかった。そして、最初の師、囲巌宗鉄禅師の下に帰って来て嗣続した。それから、自発的に慈父の如き恩師宗鉄禅師の下を去って、能登総持寺に於いて輾衣の式を受けて、大阪、法巌寺の住職となった。それにも関わらず、着任早々、檀家の不快を招くようなことばかりした。甚だしい時は十日も寺を留守にした。思うに、桃水という人物を責任感の如何なるものかをも知らぬ堕落僧であるに違いない、―ということになるであろう。

2、聖僧は、会て、修業時代に、下谷の某寺に錫杖を掛けていたことがあった。その時分の聖僧は、非常に仏に対する信仰心が厚かった。そのためには、どんなに困難なる労働をも意に介しなかった。彼は、その某寺に於いて、糞尿に汚れた板塔婆の垣のあるのを見るに忍びず、態々、自分の貰った布施をもって新しい塔婆を引っ担いで隅田川迄行った。そればかりではないであろう、態々、経を誦しながら、その板塔婆を川へ流した。聖僧は、それ程の人物であった。聖僧は、それ程、注意深かった。聖僧は、それ程、責任感があった。聖僧は、それ程、困苦を厭はなかった。ところが、この場合の聖僧の行為を観て、誰か、『聖僧は偽善者』だといい得るであろうか。田中氏は、この場合の聖僧の行為を観て、偽善者だとはいわれなかったであろうか?また、若し、この場合の聖僧の行為の根底をなしているものを観て、誰か、『それは性格的のものではない、その根底をなしているものは、聖僧たらんと欲する者は斯くあるべしという概念』だといい得る者があるであろうか?あるならば、別だ、ないならば、そこに二つ三つの問題が生じて来る。性格可変説と性格不可変説との何れを、科学的ならびに実例的に正確と観るべきかの問題、次には、性格可変性を正確と観た場合、若し、聖僧に性格上の変化があったものとすれば、如何なる影響に基付いて聖僧の性格は変化したのだ、と明示しなければならぬ問題、または、下谷の某寺に於ける時と大阪の法巌寺に於ける時とでは性格が変化したのだという問題にしても、その性格に変化を来たらしめしところの影響を、聖僧の帰郷以後の生活に於いて採らなければならぬ問題などがそれである。

3、聖僧を法巌寺に招いた者は、法巌寺の檀家の一人である。法巌寺に招かるゝ聖僧は、田中氏の御想像通りの、『性来物事に無頓着な人』であったと、仮定してみる、然らば、その一人の檀家は、なぜ、如上の聖僧の性格を他の檀家に説明した上で招かなかったのであろうか?当時の状態は、決して、それを説明なすを得ざる状態ではなかった。否、寧ろそれを説明することが、聖僧を招く上には非常に効果的な状態であった。何となれば、盗賊の横行のために、その寺には住職として住む人がない、余程物事に無頓着な人でもない限りは、この寺の住職としては住まないであろうといった状態であった。恐らくは、檀家の人々は、聖僧の如上の性格を可として迎えたのであろう。それにも関わらず、なぜ、『檀家の不快を招き勝ち』だったのでああろうか?

私は、上掲の理由によって、聖僧の最初の住職生活は自発的のものが主因をなしてはいないであろう。聖僧は、決して、寺の住職などにはまるまいなどとは思っていなかったであろうが、住職生活に対しては、気が進まなかった。しかし、恩師宗鉄禅師に勧めらるゝ儘に、嗣法のこと、輾衣のことなどを行い、且つ、大阪、法巌寺に赴いて住職になったのであろうと、私は想像する。

従って、私の想像に依れば、聖僧は檀家の不快を招いたが、それは、『性来の無頓着さの故』ではなく、檀家一統の、信仰態度に対して、故意になした、性格的挑戦であったのである。