勤労の聖僧 桃水 #18(4 修業時代 その三)

田中氏は、決して、それを根本的動機と観られておられる訳ではないが、それとは別に、想像上に、二つの謬りを犯しておられる。その一つは、『難行苦行を必然的にせざるを得なかったその裏面には深い深い苦悩があったに違いない、他には打ち明け難い心の痛みと悲しき矛盾とがあったであろう』という宮崎氏の御想像に和しておられる。

私の想像は、両氏の想像とは全く反対である。私の想像に拠っていうならば、この場合に於ては聖僧は深い苦悩を忘れ去ろうとしたのではなく、求めようとしたのである。『東洋の魂』を持っていた者といわれるドストヰエフスキイの所謂『神聖なる苦痛』にひたろうとした行為と同じものなのである。聖僧のそこで求め得たものは何か、恐らくは、それは淋しい諦めではなく、強い法悦であったであろう。

私は、如上の想像は正確であると自信する。何となれば、それを裏付けて呉れるに足る次の逸話がある。

『─それに拠ると、彼の師の囲巌宗鉄は、その弟子達に向かって、次のような意味の教訓を与えたことがある。─仏陀が諸弟子を誡めた言葉の中に、沙門は五戒を離れることを専要とするとあるが五欲とは色欲、食欲、睡欲、名欲、利欲である。この中でも初めの三欲は出家の身には離れ易いが、唯だ何うしても離れ難いのは名利の二欲である。年臘も長け法寿も累って人々から崇められるようになると、名利の二欲は、いよいよ厚重になって来る。そして後には、その名利に道理を付けて世間に誇るようになる。この故に、古聖先徳の教誡もこれが第一となって居る。我が弟子たる者は、この知見解会は、各自の修業と力量に依るものであるから、この二欲のことを念頭に置いて離れるように努力すべきであると云う。委曲丁寧なるその師の教訓を聞いて、他の弟子達は皆な黙然として頭を低げていたが、唯ひとり桃水だけ、「差してもなきことを難題らしく教えられるものである」と呟くように云ったと伝えられている』(田中茂氏著『乞食桃水伝』より)

尤も、私は茲で付言して置く必要がある。

聖僧は後年、大阪の法巌寺、肥後の清水寺などの住持を経て、肥後島原の禅林寺の大和尚となっている。しかも、聖僧を禅林寺に招き寄せた大檀越たる高力左近太夫隆長は暴虐飽くところを知らざる領主である。仮に、聖僧はこの暴虐なる領主に諫言し、領主を救うための方便から禅林寺の住持となったものだとしても、いまだそこには著しい名欲のあるを見遁すことは出来ない。としてみれば、上掲の逸話に依って、聖僧は既に15、6才の頃から名利の二欲を捨てた人とは見られない。そう観るのは正確ではない。上掲の『差してもなきこと』の言葉を通じて聖僧を観る場合には、聖僧は人間の可能性を信じることが強かったと私は観るのである。

さて、聖僧は20才を過ぎてから、一旦、宗鉄禅師の膝元にあることを辞してから、武士でいえば、所謂武者修業に当たる仏道修業の旅に出ている。それは、自発的のものであったか、または、師の勧めによったものであったかに就いては、諸家の御想像は、単に、そのことは、自発的なもので、それには師もまた賛成した、という程度にしか働いていない。私は、そのことを非常に遺憾に惟う。

私はこの事に就いて具体的にいいたい。―大正以後の諸家は、前掲聖僧の難行苦行に就いて観る場合には、聖僧の性格を西洋人的性格、或いは、西洋文学中毒とでもいった病気に罹ったゝめに、心にもなく深刻がかった行動を採る拝欧的少年の性格として取扱っておられる。そして、更に、その上に、文学的潤色を施して、如何にも聖僧桃水の身の上に、倉田百三氏著『出家とその弟子』に見ゆるが如き恋愛事件でもあったかの如く、または、俳人一茶の家庭にあったが如き複雑なる家庭的事情がこゝにもあったかの如く見せ掛けておられる。このことが単に自著を出版して貰わんがための意図の上に立っている場合は、問題は別にして取扱わなければならぬであろうが、私は、諸家は事物を考察するに当たって、時、処、位を超越する欠点があると指摘したい。

その欠点の中の一つを挙ぐれば、凡そ、偉大なる人物なりと認めらるゝ所以は、重大事件の身に起こるに当たっては、嫌に周章てたり、騒いだり、深刻がかった行動を採ったりはしない。沈着に、冷静にそのことを処理して行くが、一般に些細なる事柄といはるゝが如き事に当たっては、それを等閑視するが如きことはない。そこに重大なる意義を発見し、または、重大なる意味付けをして、本気になってその事に当たっていく。そこに一般普通の人と偉大と認めらるゝ人物との性格的乃至は生活的特徴の相違点があるのである。従って、前掲の難行苦行の場合には、斯かる異常なる行動のある以上は、その動機として、そこには何等かの重大事情が介在するのではないだろうかとなどと考えるべきではなく、寧ろ、聖僧の仏道修業の旅に出た場合に当たって、そこには何等かの重大事情が介在するのではないであろうかと想像すべきである。それは、偉大なる人物を考察する場合の、想像上の定石なのである。

殊に、聖僧旅立ちの場合は、年令20才前後である。昔の青年の肉体的成長力と今の青年のそれとの相違に就いて考えていうならば、今の青年の22,3から4、5の頃のことであろう。この時代の青年を最も支配するものは性的欲望である。もちろん、諸家は斯かる観察に立脚したるが故に、上掲、難行苦行に恋愛関係か何かありはせぬかと想像せられたのであろう。私もまた、それに就いては、あったかも知れないと思うが、私は、聖僧はそれに関する悩みを解消する方法としては、業々しい態度を採らなかったであろう。寧ろ、後段の旅立ちに於て、それを解消する方法を講じようとしたのではあるまいかと想像する点で、諸家とは異っているのである。私は、この旅立ちには、何か重大事件が絡まっているのではないかと想像する。そこには、恋愛事件はなかったとするも、師との仏教上の意見の衝突だとかなんだとかいったものがありはしなかったであろうか?しかし、それに就いての資料はないのだから、これには触れぬことにしたい。