勤労の聖僧 桃水 #16(4、修業時代 その一)

四、修業時代

偉大なる人物に於ては、『修業時代』或いは、『卒業時代』などの区別はあろう筈はない。彼の生涯は全部的に『修業時代』であろう。しかし、私は便宜上の区分から、第四章に『修業時代』という題名を附して、新しく筆を染めることにする。

 田中茂氏は、その著『乞食桃水伝』に於て斯う書いておられる。
『―運命の導くまゝに寺院の人となったから後の彼は、囲巌(宗鉄)の指導の下に能く学び能く識ったであろうが、知る人の稀な彼の真価が発揮せられたのは、彼が13、4才になった頃からである。時には断片的な閃きを見せたであろうが、それまで内に秘められていた彼の頴慧さが、その頃になって、いよいよ鋭く現われて来たと言われている。恐らくその容貌と矛盾する彼の才智は、一部の人々の間に相当評判されたであろう。そしてそれは何時とは為しに、彼に対する人々の態度をさえ改めさせたであろう。』

 田中氏とは限らず、聖僧とその伝記者の多くの人々は、桃水は13,4才の頃になってから初めてその才智を認めらるゝに至ったものかの如く想像しておられるようであるが、私の想像に拠れば、この事は前段に於いて説述したところであるが、聖僧は既に在家小児であった頃から、その聡慧さは認められていたのである。故に、私は、恐らくは、聖僧は寺門に入ってから一年足らずのうちに、その聡慧さを評判せらるゝに至った、しかも、故郷、柳川に於けるが如く『この児、寺門に適す』として評判せられたのであろうと思う。従って、前掲の如き逸話を認むる場合には、聖僧、8,9才の頃の出来事として認むることが正しいのである。

 さて、われわれは、幼年聖僧桃水は、円応寺生活に於ては如何なる影響を受けたかに就いての想像を更に具体的に比較的詳細に書いてみよう。

 一口に『禅宗』とはいうものゝ、臨済宗の宗風ともいうべきものは、峻烈であって、最も坐禅を重要視している。そして、喝を飛ばしたり、棒を下したりすることが多いが、曹洞宗風ともいうべきものは、悠容迫らざるものであって、その宗風は寧ろ、坐禅よりは平常心の方を重要視している。この宗風が円応寺の寺風の底を流れ、上下一体を特色とする鍋島藩風がその表面を流れていたのであろう、先ず、その事柄が幼年聖僧桃水に影響する。その次ぎには、宗鉄禅師の人柄が影響する、前説の如く、宗鉄禅師は慈悲深い人である。のみならず、永平門下18世の法孫に当る人であるから、学殖に大であったことは確かであろう。宮崎氏の如きは『桃水を教育した囲巌宗鉄禅師の行状は、当時の宗教界にあっては希代の学者であり、又徳者であった』と迄激賞しておられる。宗鉄禅師は希代の学者であったかは別として、学殖の大であったことに就いては疑うべき余地はないであろう。

 私は、前に田中氏の御想像を否定して、幼年聖僧桃水の聡慧さが非常に評判になったのは、桃水の、寺門生活に入ってから一年足らずの間であったであろうという想像を述べたが、恐らくは、宗鉄禅師は、聖僧を最初に引見して一目見ただけで、既に将来この事あるを看破したであろう。禅師は、『この児、凡庸の器にあらず』とそれ位に洞察せしむる器でなかったならば、共に、後世にその名を顕すことはなかった筈である。

 しかし、宗鉄禅師と雖も、単に、幼年聖僧を一度や二度見た位のことでは、取扱いに万遺憾なきを期することは出来なかったであろう。人間教育は却々難しいものである。人間教育は、軍用犬を躾けるよりは遙かに難しい。禅師は桃水に対する教育に於て、相当失敗を重ねたようであるが、私は、その事に就いては後で述べる。

 幼年聖僧桃水は、円応寺へ来てからは『作麼生』(如何。どうじゃ)という言葉を覚えたり、『恁麼』(左様な。そんな)という言葉を覚えたりしたであろう。または、禅師は、好んで、檀家の者へ『本来無一物』という字を揮毫してやる。聖僧は硯をすりながら、それを横から見ていた事もあるであろう。

 間もなく『出家』という言葉の意味に就いて聴かされる。それは、単に、家を捨てるというだけの意味ではない。一切を捨てゝ、何物をも持たぬ生活に入る事じゃというような事を教えられる。或いは、禅宗は、達磨大師によって唱えられ出したものであること、同じ禅宗でありながらも、臨済宗曹洞宗とでは、仏教に就いての教え方や説き方が違うと教えられる。または、釈迦と寺の住職と弟子との関係に就いて教えられる。宗鉄禅師は、学殖を持つ高徳のことゝして、僧侶生活をするに就いて最も肝要の事―本当の事を教えたであろう。それに就いては、こんな言葉がある。『背師自立』

 若し真理(仏教語では正法)に照して、それは正しいとは認められなかった場合には、師(住持)の説に叛いて自説を立てゝもいゝ―という意味である。
『聞法随順』という言葉もある。これは師から法を聴き、それを理解し、確信し、そこで初めて師に帰依して随順せよ、という意味である、―そんなことをも教えられたであろう。

 または、聖僧に対する禅師の教え方の順序は、私の今いう通りであったか否かは別として、『如来』という言葉の意味をも教えられたであろう。―『如』とは如実(本当のこと)であり、『来』とは行道(行い)である、本当のことを知ると共にそれを行ったから如来であると教えられたであろう。

 または当寺の本尊十一面観世音の由来、その像をお作りなされた 聖徳太子の仏の道をきつく御信仰なされたこと、お慈悲深くおわしましたことなどを聴かされたであろう。

 そのほか、この寺の中にある物の中での特殊なるもの、この寺の外にある、川、山その他の中での名立たるものに就いて聴かされたであろう。そして、それらの教えの太宗をなしているものは、釈迦や達磨や当寺の開祖たる恵起禅師やの教えの取次ぎであったと想像してみてよいであろう。