2010-04-01から1ヶ月間の記事一覧
16.有に結縛すべき因本たる、愛林所生の煩悩あることなきかの比丘は、蛇が古りたる舊皮を棄つるが如く、彼此の岸をば共に捨つ。 (南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 一 蛇経 五頁) 生存へ縛りつけられる元になる、愛欲から生ずるものゝ何もない…
第一講 その十五明行足、明というのは智慧の明かり、行というのは実行です。修道、修行も入りますが、日常生活において宗教活動をするという事も行です。それが足というのは足りるということです。この明行足、智慧の明かり、智慧と行いが足りている方、満足…
第十三 刀自良人の病報に接して帰国の途につく 幕府は、当時、長州邸内に、志士の多く潜伏するを探知し、種々の手段を設けて、同邸を窺ふこと、ますます急なりしかば、品川久阪等、刀自の身の上を気遣ひ、或夜窃かに、刀自を船に乗せて、長州に遁がれしめん…
吉永光治のおりじなる童話 はな あきこが おかあさんの へやで きょうだいの かがみを のぞきこんでいました。 「どうかしたの」 おかあさんが へやに はいってくると ききました。 「どうも しないわ」 あきこは へやを ぷいっと でていきました。 どうもし…
120 善人と雖も、善の未だ熟せざる間は、苦悪を見る。然れども善の熟するや、その時善人は福善を見る。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 九 悪品 三五頁) 善が熟する時 善人もその善が熟さざるうちはわざわいをみる。されどその善が熟する時、か…
15.此岸に来るべき縁となる所の不安所生の煩悩あることなきかの比丘は、蛇が古りたる舊皮を棄つるが如く、彼此の岸をば共に捨つ。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 一 蛇経 五頁) それによって世間の生活へ引き戻されることになる、あれこれ…
第十二 加茂行幸当時の日記 刀自は、諸藩の志士と共に、専ら力を 王事に尽したりしが、その危難の迫りし時、一切の書類を焼き棄てしかば、当時の事情を詳悉するに由なきは、実に遺憾の事といふべし。 而して、その日記としては、唯僅かに、加茂行幸の際にお…
第一講 その十四次が応供、供養に応ずる資格のある方。自分の欲望本位で暮らしていない人、人々のために存在する人。だから供養、供養というのは、ご飯を差し上げる、信者さんの側から、どうぞご飯を食べてください、そして体を永らえて、私達に真理の導きを…
吉永光治のおりじなる童話 しゃしん 「ともこ!」 おかあさんが よびました。 ともこは へんじを しません。 あさから ともこは ぷんぷん おこっていました。 どうしてかと いうと それは このあいだの にちようびに どうぶつえんに あそびに いったとき お…
114 百歳の寿を完うするも、最上の法を見ざれば、最上の法を見る者の1日の生、之に勝る。 (南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 八 千品 三四頁) 不死の道 死にあらざるさとりへの道を見ずして百年生くるよりは、死にあらざるさとりへの道を見つつ…
14.いかなる随眠もあることなく、諸の不善根を害破せしかの比丘は、蛇が古りたる舊皮を棄つるが如く、彼此の岸をば共に捨つ。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 一 蛇経 五頁) よからぬ性癖の跡形もなく、不善の根の抜き去られた、その修行者…
第一講 その十三ブッダは人間である。仏様とは人間である。しかもただの人間ではないぞという訳です。如来である、真理から来た方である。如とは真理ということです。タターガーターということです。タターとはあるがまま、あるようにある。例えばミカンを持…
第十一 刀自辛うじて虎口を免る 時に一人の、あわたゞしく呼ぶものあり、驚きて顧みれば、これ長州の藩士渡辺新三郎にてありき。新三耶声を励まして曰く、余は時山直八、品川弥二郎両士の使者なり、御身は今死すべきの時にあらず、幸ひに捕吏未だ来らず、寸…
吉永光治のおりじなる童話 つきよのばんに つきの あかるい ばんです。 みつおさんは かわの そばの いしに すわって きかなを つって いました。 「ちっとも つれないなあ」 うきを じっと みつめて いると ねむくなります。 ふっと きがつくと つきが たか…
13.走り精進し過ぎず遅れ懈怠するなく、「一切はこれ虚妄なり」とて愚礙をはなれたるかの比丘は、蛇が古りたる舊皮を棄つるが如く、彼此の岸をば共に捨つ。 (南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 一 蛇経 四頁) 行き過ぎずまた後れず、「一切はこ…
90 有為の路を終へて憂患を離れ、一切に於て解脱し、一切の繋縛を断ちたる人には苦悩なし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 七 阿羅漢品 三十頁) 終りある旅 旅を終え、悲しみをはなれ、すべてに自由となり、一切の束縛を捨てたる人に悩みなし。…
第十 刀自書類を焼き棄て自刄の意を決す 然るに、文久三年二月廿七日、つひに忠行正胤等を始め、その他同士のものは捕へられ、ついで、捕吏の刀自を索むること、いよいよ、急にして、京摂の間、殆んどその身を容るゝに処なかりしかば、昼潜み夜行きて、所々…
第一講 その十ニ縁・信・教・行・証・導・謝・施というこの八つの項目をもって仏教というものは成り立っているものである。という風に私なりにまとめた所です。日本式仏教ではこれありません。そこが私なりに取り柄であります。三宝というのが仏教の構成要素…
吉永光治のおりじなる童話 おばけとんぼ ぼくがあそびから かえるとちゅう はしを わたっていたら かわらを トンボが すいすい とんでいた。 「うあい トンボだ。とりに いこうっと」 ぼくは いそいで はしを わたって いえに かえった。 うらにわの そうこ…
79 法水を飲む者は、清澄なる心を以て快適に臥す。賢者は常に聖者の説ける法を楽しむ。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 六 賢品 二九頁) 法を喜ぶ 法を喜ぶ者は、清き心にて幸せに住むなり。賢き者はつねに聖者の説ける法を楽しむ。(田辺聖恵訳…
12.走り精進し過ぎず遅れ懈怠するなく、「一切はこれ虚妄なり」とて瞋恚をはなれたるかの比丘は、蛇が古りたる舊皮を棄つるが如く、彼此の岸をば共に捨つ。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 一 蛇経 四頁) 行き過ぎずまた後れず、「一切はこ…
第一講 その十一お釈迦様達は人が捨てた、着ないようなボロ布を拾い集めて、広い布に縫い合わせて1枚の布にして、それを衣として、日常の着物として着ておられた。インドでは普通の人も1枚の布をぐるぐると体に巻きつけるわけですから、それが衣。儀式用のと…
第九 刀自足利木像泉首の議に與る 文久三年二月廿一日角田忠行、洛西の等持院詣りて、足利三代の木像を観んとす。寺僧、賽を求めて、帳を開かんと、忠行嚇として怒り、罵りて曰く逆賊の像を観るに、何ぞ賽を用ひるの要あらんやと。去りて、長尾武雄、小室信…
吉永光治のおりじなる童話 おつきさん つきの あかるい ばんです。 くまのこ コロくんが おかあさんに ききました。 「おつきさん いくつ あるの」 「なにいってるの おつきさんは ひとつですよ」 「ちがうよ たくさん あるんだい」 「ほら みてごらん」 お…
11.走り精進し過ぎず遅れ懈怠するなく、「一切はこれ虚妄なり」とて貪染をはなれたるかの比丘は、蛇が古りたる舊皮を棄つるが如く、彼此の岸をば共に捨つ。 (南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 一 蛇経 四頁) 行き過ぎずまた後れず、「一切はこ…
60 不眠者には夜長く、疲れたる人には一由旬(距離の単位)も長く、正法を知らざる愚者には流転長し。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 五 愚品 二六頁) 長く遠い道 眠らざる者に夜は長く、疲れたる者に五里の道は遠し。真理を知らざる愚かなる者…
第一講 その十お釈迦様は45年間旅から旅に人々にお話をなされた。正導、正しく導く、インドの言葉でニデッサといいます。これは唱えて、唱えてとは口で言って唱えて導くというのがニデッサなんです。お釈迦さまはそのニデッサをなさった。お話をなさって導い…
第八 刀自着京の後諸公卿と交はり次第に禁中に近寄る 刀自は、着京の後、島田某なる人の宅を、仮りの宿りと定め、五條、中山、白川、大原等の諸公卿を始め、その他高貴の門に出入して、日夜機密に参与したり。 この時に当りて、平田の門人にして、上京するも…
ボール おじいさんが へやで ほんを よんでいたら 「ガチャーン」 まどガラスが われて ボールが とびこんできた。 「また こどもたちだな」 おじいさんは ボールを つかむと まどから かおを だした。 「あれっ」 そとは しーんと しずかだった。 「へんだ…
51 愛すべく色麗しくとも芳香なき華の如く実行なき人の語は、善く説かるるとも効果なし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 四 華品 二五頁) 言行一致 かがやきてうるわしき花の色はあれど、香りなきがごとく、よく語れる言葉も、これを行わざる者…