原始仏教講座 第一講 その十四

第一講 その十四

次が応供、供養に応ずる資格のある方。自分の欲望本位で暮らしていない人、人々のために存在する人。だから供養、供養というのは、ご飯を差し上げる、信者さんの側から、どうぞご飯を食べてください、そして体を永らえて、私達に真理の導きをして下さい。と言ってご飯を差し上げることを供養と言う訳です。日本では供養と言わず、先祖供養、死んだ人にお経上げてもらうことを先祖供養と言っている。本来供養とは生きている人に食べ物を差し上げて、その体を養うことが供養なんです。その供養に応ずる資格のある方。人々のために生きて導きをなさる方だから、その供養を受けるだけの資格がある。これが応供です。これはアラハンというわけです。

正等覚者というのは、正しく等しく覚った方、何を正しく等しくというのか、自然の、人間も含めての自然の、あるべき姿、有り様を正しくそのままに等しく覚られた方。要するに人為的文化的な捻くった考えでないということです。あるがままを覚られた。それが正しく等しくです。と覚られた方である。如来、応供、正等覚者、これが仏様としての三つの肩書きです。人間を超越した存在ではない、ご飯を食べられる方である。お釈迦様はご飯を食べられた。仏様はご飯を食べられる、肉体を持っておられた方であるということです。

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