松のほまれ 松尾多勢子 第十三

  第十三 刀自良人の病報に接して帰国の途につく

幕府は、当時、長州邸内に、志士の多く潜伏するを探知し、種々の手段を設けて、同邸を窺ふこと、ますます急なりしかば、品川久阪等、刀自の身の上を気遣ひ、或夜窃かに、刀自を船に乗せて、長州に遁がれしめんと謀り、その準備もほゞ整ひぬ。

たまたま、志士の、急報を齎らし来るあり、曰く、刀自の良人淳齋郷里伊那にありて病重く、為めに長男誠の上京するありて、頻りに刀自の所在を捜索すと、こゝに於て、刀自は、直ちに誠に会ひて、つぶさにその病状を聞き、最早一刻も猶予なりがたければ、急ぎ帰国の用意に取かゝりぬ。

刀自の、将に国に帰らんとするや、志士の別れを惜みて、来り訪ふもの甚だ多く、刀自も亦、この地に留まりて、諸士と共に事を謀ること能はざるの事情を歎き、種々将来のことなど相議りて、互に時々の通信を約し、かつ今後一朝緩急の場合には、再び上京して、事を共にすべきことを誓ひて、諸士に別れを告げ、遙かに宮闕を拝して、

  古郷にかへるも惜しきたび衣
     おほうち山にひかれひかれて
                       た せ  子
わかれてのうさを思へばあふことの
     なからましやとおもひながらも

(松のかほり 清水謹一著 公論社刊より)