松のほまれ 松尾多勢子 第十一
第十一 刀自辛うじて虎口を免る
時に一人の、あわたゞしく呼ぶものあり、驚きて顧みれば、これ長州の藩士渡辺新三郎にてありき。新三耶声を励まして曰く、余は時山直八、品川弥二郎両士の使者なり、御身は今死すべきの時にあらず、幸ひに捕吏未だ来らず、寸時も早くこゝを遁がれたまへと、手を拉りて出でければ、刀自は、新三郎に具せられて、急ぎ河原町の長州邸に入り、久阪義助、時山直八、楫取素彦、品川弥二郎の四士に会ひしも、唐突の際とて、互に一語を交はす暇まなく、たゞ目くばせして、直ちに戸棚の中に潜み、僅かに虎口を免かるゝことを得たり。
刀自は、この時、長州侯に一首の歌を贈りて、その厚意を謝しぬ。
吹く風になびく尾花もうらがれて
さびしくもあるか武蔵野のはら
た せ 子
ふる雪におのは草葉にうづもれて
ちゝよとよばふ鳥のあわれさ (松のかほり 清水謹一著 公論社刊より)