田辺聖恵 の検索結果:
…的精神をもつ者が、この社会において、どのような働き、どのような働きかけをしてゆくかということである。師に完全に従うのも自己創造・実現であるし、応用面に生きるのも自己実現である。今日、この両者共々に必要になってきた。道統をまず明確にし、これを大衆に啓蒙することと、応用面の実践をもって如実に自己を生きることが今日唯今の仏教徒の使命である。このことを自覚するかしないかが、別れ道ということに違いない。 (浄福 第53号 1978年1月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…たちが、志、立志、初一念、仏教語では初発心(発ボダィ心)を非常に高く評価し、尊重したのは事の成否が、そこですでに八十%位は到達しているという体験によるからである。釈尊の弟子ナーガサマーラは、別れ道で、師に行く先を問うことをしなかった。自己を主にして、師を主にするところの習慣が身についていなかった。行く先決定の重大さが、こゝで象徴的事件として伝えられている。(三宝聖典 第一部 第五十項 別れ道) (浄福 第53号 1978年1月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…ずることの無意味さを心得ておられるからだ。この雨行が退出した後、釈尊は周辺の弟子全員を呼び集められる。そして修道者、仏教者としての七つの衰えざるを法を、しかもいく通りもの系列として解説される。そこには信者と修道者をごっちゃにして混乱させる様な方式をとっては居られない。私はそこに真の指導者救導者というブッダの内容が如実に、まことに親切になされていると思うのである。まずは衰える事なく、真実に栄える事の意味合い、自らじっくり考えるべきではなかろうか。 (三宝 第163号) 田辺聖恵
…してきたが、そのほとんどが、対話問答であることをお分かり頂けたのではなかろうか。この一篇においても、すぐれた対話者である事が伺える。雨行大臣の問いに対して、まず直接答えられず、弟子のアーナンダに答えさせておられる。これは弟子の尊重であり、第三者的客観事実を第三者に提出させているという方式。そしてこの事実としての現状認識から論を進められるのである。単なる観念論、理想論でないという、足が地についた対話をしておられるのは、何と素晴らしい事であろうか。 (三宝 第163号) 田辺聖恵
…う、信者としての最高生活が始まる。大地に打ちこまれた標柱がゆるがぬように、三宝帰依の信、心情がゆるがぬところに、救われも覚りも明らかなもの、確かなものとなってくる。三宝の声が、この地に満ちあふれる時、日本は釈尊の仏教国となる。残念ながら、この日本には、この三宝の声はあまりにも小さい。今後三十年、三百年とかけてゆかねばならぬ大問題である。この問題意識こそ、仏教徒のまことの信と云うべきであろうか。 (浄福 第76号 1980年1月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…を事あるごとに行うことによって仏教による生活者になってゆく。施の足らざるを恥じるようにすらなる。そしてやがては慧(覚り)と云う最高の境地にあと一歩という所にまで行けるようになる。何とも有難いことである。信者としての道は広々と開けている。それをどこまで自発的に歩み出すかだ。 これらの生活者としての実践をぬきにして成仏するかしないか、云々しているのは全く観念の遊びであって宗教ではない。仏教とはまさに自分が納得出来る善き生き方をすると云う事なのだから (三宝 第139号) 田辺聖恵
…いるが、その大半は善き信仰者であり、財物食物の善き供養者であった事が明らかだ。善き信者が善き浄施をすれば、宗教者はそれに必ず応えるようになる。信者がソッポを向けば、宗教者はまず生活費からかせがねばならなくなる。これが精神界においてどれだけの損失であるか計り知れない。信者がめいめい宗教解説書を読んだ位では宗教運動にはとてもならない。 日本はまさにそうした、信者の不支持のツケに悩む時代である。寺院者は自らが反省すべきで、信者が批判すべき事ではない。 (三宝 第139号) 田辺聖恵
…は、自分自身で気づかないことなのだから。知能とは、多くの場合、これとこれを分けて、こゝがこう違うと知る、いわゆる分析知のことである。これは選択とほとんど同じであるから、より豊かに、より便利に、つまりより幸せを比較しての選択的幸福論でゆくと、人はますます知的になってしまう。そして心情の退化を気づかぬどころか、純なる心情などを軽蔑するようになる。つまり感動を持たない文化人間になってしまうのである。 (浄福 第76号 1980年1月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…って美徳ではない。親孝行を美徳している社会では、隣人への思いやりが育つ。個性尊重の世界では、次第に人々はバラバラとなり、社会を形成しがたい方向へと向う。そして福祉政策はそのあとをたゞ追いかけてゆくということにしかならない。 和合というものを目的、理想とする真の釈尊仏教が登場しないことには、誤解を解くどころか、自らの存在価値すら無くなってしまうのである。社会国家への忠誠と家族的真情を仏教は決して否定するものではないのである。 (浄福 第52号 1977年12月1日刊) 田辺聖恵
…る知能を根拠にしてしまい易い。そこでつねに開祖、教祖の真精神はどこにあるのだろうかと問訊し続ける心情のあり方が大切だと考えられる。いわば心情にささえられた知能とでも云おうか。心情が信・信仰であるから、この信心がはっきり土台にあっての知的探求、あるいは修行的探求がなされねばならない。さもないと人間のための、人間による宗教ーとなってしまって、自己流というか、自己の作り出した宗教まがいのものとなる。 (浄福 第76号 1980年1月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…への尊敬供養の貧弱さが最大の原因となる。 真の仏者の育ちにくい土壌は、逆に云えば、そうした宗教的雑種性の強い日本の土壌の中でこそ、ごく少数の原始志向者が生み出されるのかも知れない。ビルマ・タイ・セイロンなどの仏教的土壌が濃厚なところでは、かえって原始志向性はうすれ、外形の伝統維持が主流となりやすいのではないか。いずれにしても、日本の中で仏教は求道されねばならない。日本的心情をいかに統御するかという問題をつねにかかえながら。 (浄福 第52号 1977年12月1日刊) 田辺聖恵
…前の二つが「人間いかにあるか」であり、後の二つが「人間いかにあるべきか」。この冷厳なまでの人間の知りつくし、あくまでも徹底した納得を求める人間としての目的性。こゝにはじめて、知・情・行の統合された、人間の自己実現がある。それこそまさに、自己の全き実現−『全現』がそこにあると云えよう。二千五百年の歳月を経て、今、釈尊の道が明らかになってゆくことに、喜びと使命以上のものを感じる次第である。 合掌拝 (三宝 105号 1982年6月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…て、個に目覚める仏教の本来性にゆきついた。 ところがこれも、徳川時代に政治の中にくりこまれ、僧侶の安逸が続く。自己保存のために、管理者側に立つというあり勝ちな道をあり勝ちに歩んできたのである。そしていよいよ今日、欲望増長の新興宗教の蔭にかくれて、自己の存在を内部から問われるようになってきた。まさに画期の時がきたのである。 (浄福 第52号 1977年12月1日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…ところに深味のある純粋なものが出てきます。単純は分裂以前、純粋は分裂を統一したものです。分裂を越える修行によって純粋となります。修行とは英知と実践の切り結びです。」これこそ人間の学『全一学』の粋でもあり、かつまた人間らしさを追求する釈尊の仏教の粋でもある。知・情・行〜この三つが永い歴史によって、いよいよ分裂性を増している。それは、やがて大いなる自己統一を求める、求めざるを得ない前兆と云えよう。 (三宝 105号 1982年6月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…それなりの年数が要るのであろう。 だが、どんな時代にも真の法水は流れついで止まないものである。その法水に触れる事は、少々の志向を持てば可能なのである。何と希望に満ちた時代、場所であろうか。真のリーダーとしての釈尊は、求める人にはその姿を全心身をもって現わして下さるのである。そこに新しい民衆主義が形成されるに違いない。まことに有難い事ではある。 (三宝 第161号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…、人間そのもの、人間が持っているに違いない意味を考えられるようになられたに違いない。こうして幸福を約束してくれるはずの神から、人間そのものゝ存在の意味を求める修行へと転換してゆかれたのである。人間としての最大の苦しみは何か?それは不幸でも死ぬことでもない。生きている意味が分らないことである。こうして釈尊はついにその人間の存在する意味をつかまれたのである。それは真理を発見、体得することであると。 (三宝 105号 1982年6月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…の王子と釈尊の問答対話でも、分かる事で進められている。よく分らないが何やら有難いという、宗教感覚は今はほとんど無くなっている。釈尊仏教がかつて何故活き活きとしていたのだろうか。 縁起という分かり易い真理、容易にその生き方に応用出来るという事、これが真の理由であろう。従って今日でも、これからの日本でも心ある人々を活性化させるものであるに違いない。 (三宝 162号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…違う。ともかく釈尊やそのお弟子たちが、忙がしくされるといった事は想像も出来ない。それでも沢山の弟子信者を正導しておられる。それは何故だろうか。簡単に云えば金がかからないと云う事である。野宿や空き小屋での寝起き、日に一食、特定の祭り行事もなしというのだから、まさに無一物で生きておられたので、本来無一物などとタテ前を云々する必要もなかったのである。 (三宝 162号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…におちこまないようになる。第二目的に到達するのである。それがもの足らない人は、第一目的をめざして真の求道に入らねばならない。釈尊仏教はこのように、求道者と信者とを分けているという実際性がおる。この三宝の一つ一つは、くりかえし詳しく学習されてゆかねば、信仰も深まりにくいであろう。三宝を明確にし、あまり一つにしぼりすぎないという学習と信仰の実際こそ、今日最も必要なことと云わねばならないであろう。 (浄福 第71号 1979年8月1日発行) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
… 『仏教真実』 釈尊仏教における真実とは何か ただ単にとらわれのない心になる事ではない ただ単にはからい心を捨てる事ではない 人間の中核が霊的であろうとなかろうと 縁によって生じ縁によって滅してゆく存在 この事実と理法を学習体得する事なのだ この様にして己の生きる意味を発見し充実し その喜びを分かち合う方へと展開してゆく 釈尊はそうした生き方を真実とされたのだ 田辺聖恵
…導入部をぬいていきなりガーンと頭をぶんなぐるような方式なのだから、初心の者が恐れをなすのは当然である。これらの方式は、鎌倉時代に特別な聖僧賢僧が、専門家としての要約をした、自分なりの総決算なのであって、必ずしも初心者への道ということは出来ない。もしこれらが初心者の道でもあるのだというなら、初心者が近づきがたい思いをしているという現実によって、不適当なものということになる。入門なき求道はない。 (浄福 第71号 1979年8月1日発行) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…悟り体験は得られない。 「われを見る者は法を見る」 法を見ようとしない者は、私を見ることにはならない。この厳しさ、いわゆる拝み信心の甘さがある間は解脱体験にほど遠い。釈尊のこのギリギリの真髄正導によってバッカリは遂に解脱し、修道の目的を達した。再生の無い世界へと旅立ったのである。かれは自ら刀を取ってその肉体を破棄したのである。何というスゴサか。 (三宝 165号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…た。 熱情の方向 自己を確立するという、尊い熱情は、師であり、理想者であるブッダ釈尊によって、若者へと伝統されていった。この到達点をもった、理想への熱情、これが仏教である。枯死衰亡のちぢこまったひねくれではない。物欲と知欲の迷路から救出してくれる、仏教、これこそ、真の世界、和合の道であり、この開祖釈尊の誕生こそ、祝いの最上にものではなかろうか。今こそ、本当の夜明けとなるというべきであろう。合掌。 (浄福 第4号 1973年4月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…しない。経済全体主義の日本はみせしめ銃殺などはやらないが、金=幸福という短絡思想を世界に輸出している。そう言えば金閣寺とか銀閣寺とか、日本人好みの仏教らしきものがあったっけ。一度焼けたとかどうとか。ハンニャ心経を書いて願いごとをするとかなえられるという募集をしているお寺もあるから、「一切は空」といった内容教理などは簡単にというか、積極的に無視される。こうした伝統を考えると、真理真実を抜いてゆく心の砂漠化現象はもうずっと前から始まっていたと云える。 (三宝 165号) 田辺聖恵
…時中、隣組みで主婦たちは、人情のよさを知った。今やブロック塀は高く築かれ、隣人の名前さえ知らない。ここに協和はない。富力→国力→武カ、これが必然の道であるとすれば、自由主義も社会主義も目クソ鼻クソを笑う、のようなもの。 第三の思想 それは、自然のあり方(それのみが真理)を追求し、全人格を通して、自然のあり方に、合体すべく、実践、実現してゆくことであり、それは物心両面において少欲知足が原則となる。 (浄福 第4号 1973年4月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…たフシがある。本来もともと仏けといった話。これではお釈かさまは必要でなくなる。もっとも欲さえ捨てればという条件つきらしいが。今日出家者が存在し得ない日本で、在家者は一体何を基準とし、その比較において自己を確かめる事が出来るであろうか。だが道はようやく開け出した。三宝を明らかに知る事によってだ。これから長い道のりが始まる、と云うべきであろうか。 (三宝 第157号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…ての本質がそうさせたのである。人間はいつかは、自己の人間としての本質を追求せざるを得ない。そういうのが人間として与えられている本質なのだから。この本質に目覚めない者は何度もこの地上に生れ変ってきて、苦しみを味い、気づかせられるとなっている。この現在の生をムダにしないためにも、早く真理中心への求道心を起こすようにしたいものである。その求道心こそ、人間を動かしている中心のエネルギーなのだから。 (浄福 第73号 1979年10月1日刊 ) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…は次第に薄れてくるのではなかろうか。しかし釈尊仏教においては個々のビク修道者がどの様な段階であるうと、サンガの一員である以上は三宝の中の一宝として(サンガは修道者の和合衆=宝)信者から尊敬供養されるものであった。 今日の日本の様に寺や僧侶の感情的な批判を専らにし、では自分は正当信仰を持つかと反省する事がないような次第とおよそ異なるものである。 (三宝 第157号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…された時が本当の知(知慧−現代字は知恵)となる。たとえば雨は水滴である、という知はそうだという実感が伴っているが、太陽の表面は六千度の熱であると云われても、その知は、私共の直接の実感とはならない。六千度を体験できないからである。その六千度を納得するためには、もっと平易なことをつみ重ねる必要がある。苦行はやがて捨てられ、正行に変ってゆく。釈尊白身六年間の苦行の中から何が正行か、何が人間の原則かとその本質を求めるようになる。 (浄福 第73号 1979年10月1日刊 ) 田辺聖恵
…第二段 心的喜 体的楽 心統一 第三段 体的楽 心統一 第四段 考えるでもなく、考えないでもなく心統一 これは雑念の許容という実際性から入り、次第に心の喜び、体の安楽という段階を経て、真理を考えるでもなく考えないでもなく、深層意識で考え、その深層意識を転換、定着させることで、真理の体験、なり切りをする。この方式は自己点検しながら習熟する方式。 (三宝 第160号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ