「仏教とは誰でも進める生涯学習 」 哲学から宗教へ

  哲学から宗教へ
今日、仏教の解説書を読むと、哲学思想として『縁起』のことにふれている。しかし釈尊は単に思想哲学を求めたのではない。その縁起という根本真理をつかむことによって、知的追求を終らせ、感情的安定を確かなものとし、ついに自己を解決なされたのである。

そしてたゞ単にそれを個人的体験にとゞめず、誰でも求めさえするならば、必らず釈尊と同じような体験にゆきつける道、教課コースを設定されたのである。自己が行きつけたゞけでなく、誰でも行きつくことが出来る道を完成した時に、実は自己が完成したことになる。それはちょうど、親が自分なりの生き方を一所懸命すると同時に、その生き方を子供に伝えようとすることで、本当の親らしい親になるということに似ている。

人間が人間らしく生きるということは、人間存在の意味が分かり、その意味によって自己を解決し、さらにその解決の道を他に示す事である。自己一身の解決というのであれば、酒などの何かすり替えによって出来ないこともない。しかしそれでは、誰にでも当てはめることが出来ない。この誰でも納得のいく道、普遍の道ともなればそれは宗教である。その普遍の道ともなれば、真理を土台にするより外はない。真理のみが、どこにでも、いつの世にでも通用、人々を納得了解させるものだからである。

四聖諦の諦の字は『あきらめる』あきらかに知る、つまり真理のことである。四つの聖なる真理−それは人間そのものを、ハッキリ知る真理であり、人間はどのようにならねばならないかを、ハッキリ教えて頂けるものでもある。これによって、人間が存在する意味が分らぬことからくる苦しみからぬけ出し、まさに自己を解決するものである。よって私はこれを解決原理と呼び、これを仏教とした。

人間の存在の意味が分る−ということは知的な自己が安定するということである。自己を解決するということは−生きてゆく意味を満たしてゆくことによって、感情の安定、充足が得られるということである。人間を情的存在とのみとるのも足らないし、知的存在とのみとるのは全く事実に合わない。そしてこの知と情を結ぶ行動性をぬきにしては、人間にはならない。この三つが調和的に統合されて、より価値的であるところに、人間らしさを見出すことが出来る。

これらを結集された、全一学者、森信三師の言として−

「苦悩は意識が分裂してからの悩みです。分裂以前には、悩みはありません。分裂した者が分裂を越えたところに深味のある純粋なものが出てきます。単純は分裂以前、純粋は分裂を統一したものです。分裂を越える修行によって純粋となります。修行とは英知と実践の切り結びです。」

これこそ人間の学『全一学』の粋でもあり、かつまた人間らしさを追求する釈尊の仏教の粋でもある。知・情・行〜この三つが永い歴史によって、いよいよ分裂性を増している。それは、やがて大いなる自己統一を求める、求めざるを得ない前兆と云えよう。
(三宝 105号 1982年6月1日刊)          田辺聖恵

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ 人気ブログランキングへ ブログランキング まじめな話題