「日本宗教の無拘束と不毛」 仏教の非難され易い点

仏教の非難され易い点

儒からは、忠孝の道が欠けている-とされる。これは出家によって親妻子を養わないからである。釈尊仏教は妻子の生活の道が立った上での出家である。在家の信者は政治体制への順応や、孝道など親子の道は充分に教えられていた。日本仏教は、阿含経を無視してきた為に、こうした面の釈尊仏教の導入を気づかなかった。当然批判を受けざるを得なかった。そこで仏者は儒仏両方を学び、そのまぜ合せで在家指導をしていた。

今日はその忠孝という儒教道徳が否定され、個性尊重などに切り替えられている為に、在家道はまさに混乱、家庭はバラバラ、小学生の家出、自殺の多発というところまできている。

個だけが存在するがごとき浅薄な人間観から、真実など生れるものではない。自然、国家、社会、家庭という共存という事実の上に立った人間観でなければ、生命の理解すら出来ていないのである。

福祉が美徳とされるのは、各人、個人の善意、奉仕、施行を出発点とするからである。国家政府の義務とされるのは、政策であって美徳ではない。親孝行を美徳している社会では、隣人への思いやりが育つ。個性尊重の世界では、次第に人々はバラバラとなり、社会を形成しがたい方向へと向う。そして福祉政策はそのあとをたゞ追いかけてゆくということにしかならない。

和合というものを目的、理想とする真の釈尊仏教が登場しないことには、誤解を解くどころか、自らの存在価値すら無くなってしまうのである。社会国家への忠誠と家族的真情を仏教は決して否定するものではないのである。
(浄福 第52号 1977年12月1日刊)          田辺聖恵