釈尊出生の意義 (上)

釈尊出生の意義
 時代を救う
釈尊はニつの大きな期待を負わされて、出生された。武力によって強い国が勝ち、国をその征服王の野望によって大きくしょうとする戦乱。文化が開けてきて、一体人間は何のために生きるのであるか、それが分からぬがための思想の混乱。戦乱を平定するのは偉大なる王であり、思想の安定をもたらすのがブッダ(仏け)だと。釈尊は止むに止まれぬ心から、あとのブッダの道を歩まれたのである。

 武力は絶対か
一つの家庭の中で、争いの心を持たずに通せるであろうか。夫であり父が、収入を持ち帰る間は尊敬され、それが出来なくなると、とたんに力を失う。金力が家庭で第一に考えられている間は、その家庭は金力によって支配される。収入の少いことばかりほやいていたら、その母親は、子供に父親は尊敬にあたいしないと教えこむことになる。こうして家庭の中に、子の成長と共に、親の人格力が立消えしてゆく。
 富力と国力
この二つは同じに考えられやすい。そして守るためにも、攻めるためにも武力が大きくなる。自分の国が、あるいは自分自身が亡びてもかまわないという心が国中に、一致して表れるのでない限り、武力を捨てることは出来ない。武力では、真の平和はこない。

 理想力こそ平和の源泉
人も国も、豊かになれば争わなくなるのであろうか。物が豊富になればなるほど、欲望がはてしなく、ますます競争するようになったのが、戦後の日本である。貧乏なうちは、人々は一致協力し、人格の力も働く。戦時中、隣組みで主婦たちは、人情のよさを知った。今やブロック塀は高く築かれ、隣人の名前さえ知らない。ここに協和はない。富力→国力→武カ、これが必然の道であるとすれば、自由主義も社会主義も目クソ鼻クソを笑う、のようなもの。

 第三の思想
それは、自然のあり方(それのみが真理)を追求し、全人格を通して、自然のあり方に、合体すべく、実践、実現してゆくことであり、それは物心両面において少欲知足が原則となる。
(浄福 第4号 1973年4月1日刊)        田辺聖恵

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ 人気ブログランキングへ ブログランキング まじめな話題