四段階の静思 (下)

 「四段階の静思」(下)

 釈尊仏教と称されるべき理由

原始仏教・部派仏教・後期仏教と歴史的に見ると、それが理論中心である事が分かる。だが宗教である以上は、その理論を通してどの様に人間形成がされ、宗教者としての人格的生活活動をするか、という事が中心課題にならねばならない。つまり仏教によってどう生きたかという事である。すると、どのお経にどう書いてあるかよりも、どの様な生き方が望ましいかとなるであろう。鎌倉時代の新仏教と云われるものが、法然親鸞道元日蓮などの個性ある生き方によって展開されたものである事は誰しも認める所である。

そうであるならば、仏教の原流である原始仏教は誰の生き方によるものであろうか。それは例外なく生きた一個の人間としての釈尊の生き方によるものである。今日この様に明白であれば、それは、釈尊仏教と称するのがふさわしいであろう。つまり仏教は誰によって、どの様な特長をもって開始されたものであるかを明らかにする事から、仏教は再考、再編成されねばならないという事である。

と云うのも、後期になる程、釈尊に依らない仏教を立てる傾向があり、ある新興教団では、シャカは古くさいからダメ、脱益の仏けであると、釈尊を否定してはばからないものがすでに登場だからだ。

思想分類ならばグループ分けも結構。だが宗教は政治などと異なり、それぞれの一己者がどの様に己を生きたかという事でなければ、およそ意味をなさい。所が日本では、家の宗教、つまり家の習慣として伝承されてきた面が強いから、己の生き方としての仏教観は非常に薄かったのである。いわゆる葬式仏教としての機能しか認められてこなかった。こうしてタテ前だけの仏教国という、個人名の無い仏教者を不思議と思わぬようにしてきたのである。

 釈尊仏教の特性ー「四段階の静思ー四禅」
釈尊仏教における特徴は何か。もしその特徴の認識がなければ、今日それを改めて学習しようとする意欲は生じないであろう。ではその釈尊仏教の特徴とは何か。「考え方となり切り方」である。考え方としては、「一切は縁起するもの~固定したものは何もない」という事で、現代風に説明すれば、一切は可能性に満ちているという、最も科学的認識論であり、かつ事実論である。

 ではその「なり切り方」とはいかなるものであるか。それは心身を安定して静思する事である。行動的には何もしないで、自分を含めて一切は相関的に存在し、その影響し合って変化してゆくという認識(事実)に、心底で静思して、なり切るのである。その具体方法の要点は「四禅」と云われる四段階的な静思である。

第一段 粗大雑念 さ細雑念 心的喜  体的楽 心統一
第二段           心的喜  体的楽 心統一
第三段                体的楽 心統一
第四段   考えるでもなく、考えないでもなく心統一    

これは雑念の許容という実際性から入り、次第に心の喜び、体の安楽という段階を経て、真理を考えるでもなく考えないでもなく、深層意識で考え、その深層意識を転換、定着させることで、真理の体験、なり切りをする。この方式は自己点検しながら習熟する方式。
三宝 第160号)                 田辺聖恵


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