「釈尊仏教とは三宝帰依なり」  人間のための宗教

 人間のための宗教   
仏教に限らず、宗教は人間のためにある。人間がどのような生き方をするか、ということが人間にとって一番大事なことだからである。だが考えなればならないのは、どのような生き方をするか−ということは一番大事な生き方をすることをめざすところの生き方ということでなければならないということである。どんな生き方でもというのであれば、それは人間にとって一番大事なことだということは出来ない。

終戦後、外来思想として入ってきた大きな特徴は、自己を大切にするということのようだ。それはかっての日本が、お国を中心に、あるいはつねにまわりを気にし、それに合わせるということで動いていたことに対する反動でもあったわけだ。   

さて宗教に対して、人々はどう考えるようになっただろうか。多くの人は、神も仏けもあるものかと一応捨ててしまったかに見えた。ところが、折興数団の繁昌ぶりを見ると、かえって神仏がへったどころか増えたというべきであろう。神仏が増えるというのはへんな言い方だが、教団が増えるということはどういうことか。神仏御本尊の解釈、捉え方が違って分派したり、新しく興したりするのだから、もとのと違ってきて、そしして自分の方が正統というのだから、もとと別のものが出来てふえたということになる。これが人間のためにあるはずの宗教の、いわば泣き所、ウイークボイン卜である。何しろ、その別立の神仏に対して、もとの神仏は何も発言しない。ごちゃごちゃ言うのは人間同士ということで、どうにもらちがあかない。こうして新興のものがいつの間にか既製のものになってゆく。

創価学会は、シャカは古いからダメだ、もう利益を生み出さない(脱益の仏け)とはっきり断言する。アミダ仏はうその仏け(方便の仏け)だから邪宗、邪教だとこの三十年間言い続けてきた。そして自分の方が本当の仏法だと云う。仏教ではダメで仏法でなければならないと主張する。こゝで学会批判をするつもりはないが、もともと日蓮士人の弟子から出た日興上人に始まる日蓮正宗だから(創価学会はこの日蓮正宗の信者団体と称している)つねに他に対し批判の心が働くのであろう。

宗教というものは、開祖、教祖から始まるものである。従って自ら開祖、あるいは宗祖となるなら、それは別派、あるいは新興となるのであって正統、非正統の問題ではなく別系統のものとなる。

人間のためにある宗教ということは、人間はとかく己を中心にして、他及び旧来のものを批判し、非難したり、しやすいものであるということでもある。つまり己のもっている知能を根拠にしてしまい易い。そこでつねに開祖、教祖の真精神はどこにあるのだろうかと問訊し続ける心情のあり方が大切だと考えられる。いわば心情にささえられた知能とでも云おうか。心情が信・信仰であるから、この信心がはっきり土台にあっての知的探求、あるいは修行的探求がなされねばならない。さもないと人間のための、人間による宗教ーとなってしまって、自己流というか、自己の作り出した宗教まがいのものとなる。
(浄福 第76号 1980年1月1日刊)      田辺聖恵

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