「非情の正導」 (上)

     「非情の正導」(上)

病い重くしかもなお、未だ悟りにゆきついていない弟子に対してこれはまた何と非情なことであろうか。お前はこの信仰の道に入っているのだから、必ず救われる、何も案ずることはない、といったいわば労りの言葉をかけられるのが、本当の慈悲、親切ではなかろうか。またかりに、奇跡の宗教であれば、この忠実な弟子の病いをいやして下さるはずではないか。

私どもはしばしば、「奇跡的に救われた、これこそ神仏のお陰である」と言ったり聞いたりする。それで思い出すのは、日本が敗戦となり、ついに神風は吹かなかった、神も仏けもないと、ほとんどの日本人が思ったことである。つまり奇跡的でないにしても何らかいう発想である。もっともこうした発想はどんな未開民族でも持っている様だから、ご利益信仰が花盛りの日本では、宗教的未開性が今でも続いていると考えるべきかも知れない。

釈尊仏教の特長の一つは奇跡が無いことである。もし奇跡を求めるとしたら、一生の間にそうした奇跡にめぐり会うかどうか分からないから希望のままで、体験することなく終わってしまい易い。

では仏教にご利益は無いのかというとそうでは無い。順当なご利益なら一杯あるということだ。利益とは理法通りに結果が出る事。

人類の最大の苦悩は何か。「貧・病・争」である。アスパラガスを空輸して高級料理など豊かボケしている日本人は、世界中にモウケ出かせぎをやっているが、その世界が見えないという特殊メガネをかけている不思議な人種なのかも知れない。「一生懸命」とこの頃は書くが、命がけでカセギをやればモウケル。これは理法に合っているからご利益である。その代りというのも変だが、心の道、宗教はやらないから分からない。これも理法通りである。

日本が材木を買いしめて世界を砂漠化しているなんて事は、馬の耳に念仏である。馬は念仏を聞いても黙っているが、今時、そんなのは古臭いなどと反発したりはしない。経済全体主義の日本はみせしめ銃殺などはやらないが、金=幸福という短絡思想を世界に輸出している。そう言えば金閣寺とか銀閣寺とか、日本人好みの仏教らしきものがあったっけ。一度焼けたとかどうとか。ハンニャ心経を書いて願いごとをするとかなえられるという募集をしているお寺もあるから、「一切は空」といった内容教理などは簡単にというか、積極的に無視される。こうした伝統を考えると、真理真実を抜いてゆく心の砂漠化現象はもうずっと前から始まっていたと云える。
三宝 165号)                田辺聖恵