三宝に帰依

「三宝に帰依」
宗教は形式や強制ではない              
仏教とは何か−という捉え方に今日大いに問題があるようである。先日、浄土門からキリスト教の牧師になられたJ・S氏の文を読んだが、アミダ仏という仏けが実在的でないということが、転宗の最大の理由とのことであった。これは氏に限らず、多くの日本人が仏教に対して強い信仰を持ち得ないことの理由でもあろう。昔のお説教に、「こいよこいよお手招きして迎え取って下さるありがたい親さま」といった方式のものが多くアミダ仏がいかにも生きている人間と同じような人格や感情がある仏さまとして説かれていた。ところが敗戦によって、神風も吹かなかったという日本の神々の下落から、仏さままで実在とも架空のものともつかず、結局分らないものとして価値下落となり、物質生活の追求のみが日本人の生き方となってしまった。

より多く物の生活を求めるために、少年時から勉強勉強とかり立てて、ついに自殺が多発するという大きな曲り角にきているのだが、それは他人ごととして、相変らず子供達は多忙を極めて、遊ぶヒマもないという。

評論家諸氏は仕事に生命をかけるのは愚の骨頂だ、もつと心のゆとりを持てという。才人高収入の人はそれが出来ても、大部分の人はどうしたらよいか分らない。精神生活をせよといったところで、魚釣や、ゴルフ、ゲートボールといった身休的なもののようには喰いつきがない。これはかっての戦前の宗教、信仰がいかに形式的自発的でなかったかということの証明である。寺院、仏教が葬儀仏教になっているということを、非難してみたところで何一つ生み出さないのである。

真の仏教とは釈尊によって樹立された、つまり釈尊仏教であるが、それは要約すれば、三宝帰依、帰依三宝である。これ以上でも以下でもない。ところが今日、目本の仏教で三宝を信仰し、三宝を説く教団がどこにあるだろうか。禅宗は、禅に一切があるとして坐禅のみを強調し、浄土門はアミダ仏の本願のみを強調し、真言宗は一切が仏であるとする。なるほどそこに釈尊仏教の要約がこめられてはいるが、まず教養的にこれを理解し納得しようとする者にとってはあまりにも要約されすぎて近づきがたいという感じすらしてしまう。導入部をぬいていきなりガーンと頭をぶんなぐるような方式なのだから、初心の者が恐れをなすのは当然である。これらの方式は、鎌倉時代に特別な聖僧賢僧が、専門家としての要約をした、自分なりの総決算なのであって、必ずしも初心者への道ということは出来ない。

もしこれらが初心者の道でもあるのだというなら、初心者が近づきがたい思いをしているという現実によって、不適当なものということになる。入門なき求道はない。
(浄福 第71号 1979年8月1日発行)     田辺聖恵

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