三宝に帰依

導く者のあり方
では釈尊仏教は、どういうものであろうか。信者、初心者側から始まるのでなく、導き手から話は始まるということを第一項(三宝聖典 第一部 第一項 三宝 )は示す。釈尊は直弟子であるアーナンダに「おんみみずから、かれらを導かんとなすなれば」と云われる。たとえ法を聞きたいという人があっても、みずから正導しようという自発性がないことには仕様がないということである。

法を聞きたいといっても、いろいろな人がいる。それはたいがい自分なりの先入観を持っているからである。だからどのような法を聞きたいかということが第一にはっきりせねばならない。病気が治るといったご利益があるかないかを第一義とする宗教家?すら居るのであるから、初心者がそうした期待をもつのも当然であって非難されることではない。しかし、正導する側にその用意があるかどうかが確かでなければならない。

法を聞きたい者−導こうとする者。この両者が共に自発的である時に、真に仏教の門は開かれる。大道無門などというといかにも格好はいいが、その大道がどこにあるかも分らず、従って門も見えないから入門のしようがないという皮肉な話になってしまってはどうにもならない。

釈尊は「来たりて見よ(エーヒ・パシーカ)!」と云われる。こゝに門がある。求道と正導がピタリと合致する門がある。大風呂敷では仕様がない。

こうして釈尊仏教はフル回転を始める。つまり三つの所へゆかせるのである。その三つとは三宝である。ブッダ(仏陀)とダンマ(正法)とサンガ(正僧伽)、この一つ一つがこの世での宝、最も貴重なもの、最高の価値あるものだから三宝(ティ・ラタナ)と云う。

ブッダとは理想の方であり、人々が帰依信仰する方である。導き救いして下さる実在の方である。釈尊は歴史上、人間としての肉体をもって直接、私達を事実として導いて下さったのである。従って今日、この実際に存在した釈尊を仏様として信仰するなら、その釈尊としての精神に直接ふれることが出来る。アミダ仏としてのみ仏は、この釈尊仏(シャカムニ世尊)の仏格のみを云う場合である。

しかし、肉眼で肉体を持った釈尊仏を見ることの出来ない私達はやはり、過去の仏、架空の仏と思いやすい。そこで釈尊に少しでも近づこうとする、聖なる弟子衆が必要となる。ところがそれらの真の求道者もなかなか見当たらないのだから、釈尊時にそうした直弟子の集団、サンガがあり、それらの人々が、信者を直接に導いたのであるとという歴史的事実を知らねばならない。これらの求道、和合の衆こそ、私達に幸福をもたらしてくれる福田なのである。

そして、仏さまを信仰し、弟子達に導かれて、そのゆく先は、ダンマ(真理正法)を、体得して生きるようになってゆくということである。死んでから幸せになるといった、か細い話ではない。勿論、死後どうなるかも習い、信じなければならないが、今日、ただ今回どうなってゆくかということが最大の目的である。

真理を知り、真理に合致して生きることが三宝の帰依信仰の究極である。浄土に往生して救われるという表現によるものもこれである。従って第一目的としては、この世で覚り、救われ、生きることであるが、それが不可能な人においては第二目的として、死後の成就を願わざるを得ない。第一目的は、何びとも絶対不可能とするわけにもゆかぬし、第二目的でなければならないと決めるのも間違いであるが、宗教、信仰は求道者の側からすれば、己の能力(機根)から考えざるを得ないということになる。

こうして正しい仏敦は、真の求道者はこの世で第一目的に到達するのであるが、信者としては修行が伴わないので、しっかりとした信仰によつて、死後、悪い所におちこまないようになる。第二目的に到達するのである。それがもの足らない人は、第一目的をめざして真の求道に入らねばならない。釈尊仏教はこのように、求道者と信者とを分けているという実際性がおる。この三宝の一つ一つは、くりかえし詳しく学習されてゆかねば、信仰も深まりにくいであろう。

三宝を明確にし、あまり一つにしぼりすぎないという学習と信仰の実際こそ、今日最も必要なことと云わねばならないであろう。
(浄福 第71号 1979年8月1日発行)     田辺聖恵

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