釈尊出生の意義 (下)
釈尊出生の意義 (下)
個人の目覚め
物欲のはげしさで、今、日本中がわき立ち浮き足立っているのは誰でも知っている。そして世界の軽蔑のまととなりつつある。丁度、それはかってのアメリカのよう。
貧しさが非行の原因だったこともある。しかし今や豊かさが、若者に働く喜びを失わせ、人間そのものをダメにして ゆく。豊かさが、確実に滅亡の道なのだ。
かって釈尊は、まじめに神への道を歩んでいたバラモンの神官たちが、王から特権として、免税の田畑を貰い、豊かになるに従って、思想的、指導力を失い、ついにダメになったことをよく知っていた。そこで、理想を求める者は、物欲を少なくせねばならぬという原則を、確立されたのである。
今の宗教界は何故指導力を失って久しいのか。小欲知足という、釈尊(仏教の開祖)の原則を破っているからではないか。
何とか記念に十万円(千円ではない)という記念小判を発行するという。これが、宗教界に、大批判を巻き起こさぬということは、拝金主義が当然とされるほどのマヒ現象なのか。
知足の迷路
では物欲さえへらせば、人は幸せになるか。名誉欲や権力欲と、まことに人間は沢山な欲に走り回らせられるものだ。
そして最も高級に思われやすく、かつ根強いのが、知り尽くしたいという知欲である。これは科学となり、物欲に奉仕させられやすいことは公害でも分かることだ。
人間と自然を知り、それに合体してゆくということに、知欲の到達点があるということ、その知欲の本質が忘れられてはならない。
到達点から逆観せよ
釈尊は人間の到達点を、自ら体得し、沢山の直弟子にも、せれを実現させた。先に到達点を教え、自ら手本として示すのだから、多くの弟子は、勇気と希望とをもって、学習した。
熱情の方向
自己を確立するという、尊い熱情は、師であり、理想者であるブッダ釈尊によって、若者へと伝統されていった。この到達点をもった、理想への熱情、これが仏教である。
枯死衰亡のちぢこまったひねくれではない。物欲と知欲の迷路から救出してくれる、仏教、これこそ、真の世界、和合の道であり、この開祖釈尊の誕生こそ、祝いの最上にものではなかろうか。今こそ、本当の夜明けとなるというべきであろう。合掌。
(浄福 第4号 1973年4月1日刊) 田辺聖恵