「仏教とは誰でも進める生涯学習」 解決原埋がそれに答える

   解決原埋がそれに答える
貧しさは自己を統一させ、自己を強化するものであるが、物の豊かさは、さらにぜいたくを求め、地位、名誉、支配、そして戦争へとつながってゆく。この過程で一部の人は、文明文化への疑惑を持たざるを得なくなり、輝やかしい自己分裂への道を歩み始める。

釈尊が幸福の一切をなげうって、出家求道の旅立ちをしたのは、それだけ自己分裂が激しかったものと考えねばならない。そしてその自己統合、目己解決が、この四聖諦の完成である。従来、日本においては、思想哲理として縁起論、心情解決として空の体験、又は本願への帰投ということが強調され、すべてを信仰による心情化をもって日本化と考えてきた。それはそれなりに意義もあったし、今後もあるであろう。かってこの四聖諦は低級なものとして、日本では全然取り上げられなかったのである。今もなおそれは同じ。

それはニバーナは低級、成仏は高級という、覚りの抽象化、理想化、ついには自己において不可能とするまでになって、人間はいかにあるべきか?から仏はいかにあるか〜という、とてつもない哲学になってしまったことによる。

この四聖諦(解決原理)の確立によって自己の統合を全うされた、この実践実行に満ち満ちた、釈尊自らの開発による、この解決によって自己を解決統合し、さらに他者へその解決の道を伝えてゆくことによって、まことの充実、それ以上何も願わず、祈らず−となってゆくことこそ、釈尊の仏教徒となることである。

四聖諦はつね最大の丁寧さをもって解説、伝承されてゆかねばならぬものである。こゝではその余白がないが、取りまとめれば−

 苦諦−現状認識〜人間はいかに欲望と苦悩にみちた存在であるか。
 集諦−原因分析〜死後にすら欲望を延長しようとする無知と欲望。
 滅諦−目的確立〜人間としての統合充足(利他も含む)。
 道諦−実行方式〜目的実現への八つの具体実行方法。

前の二つが「人間いかにあるか」であり、後の二つが「人間いかにあるべきか」。この冷厳なまでの人間の知りつくし、あくまでも徹底した納得を求める人間としての目的性。こゝにはじめて、知・情・行の統合された、人間の自己実現がある。それこそまさに、自己の全き実現−『全現』がそこにあると云えよう。

二千五百年の歳月を経て、今、釈尊の道が明らかになってゆくことに、喜びと使命以上のものを感じる次第である。     合掌拝
(三宝 105号 1982年6月1日刊)          田辺聖恵

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