「在家者の修行」 (下)

「在家者の修行」(下)

修行又は修道は目的達成のための中心行動である。その行動が持続するためには、その準備と明確な目的が必要である。この三つワンセットを「戒・定・慧の三学」と云う。戒とは修道生活をしてゆく為の道徳規律である。最低五つ。「殺・盗・淫・うそ・酒飲み」 この五つの規律は在家者にも出家者にも共通する。ただし、出家者の淫は不淫、つまり男女関係を持たない事である。今、ニワトリをしめ殺してきて、サアこれから瞑想だと云って出来るものだろうか。酒を飲んでいい気持になって法を談じてもそれは趣味のたぐいでしかない。ところが日本仏教ではこれらの規律が宗教者の口から説かれることはまず、ほとんどない。その理由は聡明な方々がいろいろと考案しておられるようだ。

理論づけはどうあろうと、静思行をやるのであれば、前準備が必要なのは容易に分かる事である。小学生でも学習の初めと終わりに挨拶ぐらいはする。もっとも合掌しながら酒を飲むという器用な事が日本では間々通用している。

次には到達目的が明確であり、それの達成に並々ならぬ強烈な欲求がなければならない。その事において何ごとも替え難いという思いだ。無欲テンタンなどというのは年金生活者の余裕言かも知れない。本来、仏教ほど欲の深いものはない。生と死を超越した最大級の満足をくれというのだから。つまり永遠の生命なんかじや物足らんというのである。これではちょっとした神様も持て余すに違いない。勝手にしろだ。まさにこの勝手な話だ。しばしば仏教者が誤解されたり(人間の道に反すると)非難されたりするはずだ。

永年、農耕民族として、しかも儒教道徳で教えられてきた人々にとって、純粋仏教の互恵性は理解し難いものに違いない。

仏教の誤解と云えば、仏教者自身も超越思想としてヘンに誤解してきたフシがある。本来もともと仏けといった話。これではお釈かさまは必要でなくなる。もっとも欲さえ捨てればという条件つきらしいが。今日出家者が存在し得ない日本で、在家者は一体何を基準とし、その比較において自己を確かめる事が出来るであろうか。だが道はようやく開け出した。三宝を明らかに知る事によってだ。これから長い道のりが始まる、と云うべきであろうか。
三宝 第157号)                  田辺聖恵


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