「活き活きとした信仰」 (上)

「活き活きとした信仰」(上)

『小次郎、破れたり』と武蔵が釘をさした一節を思い出す。こんな比較をしてはお釈かさまに対して申し訳ないが、ここの所を拝読するたびに、いかにも信仰が活き活きとしたものであった事を、強く思わせられるのである。金ピカの仏像を自分なりの感傷で、有難がって拝観すると云った、鑑賞だが信仰だが分からないような世界と、一線を画した、真の活信仰がここでは強く感じられる。

ブッダ釈尊はシヤモンと呼ばれていた。これは出家遊行者、古来からの宗教形態を脱し、全く自由に、自己を主体にして旅をする宗教者たちの事である。釈尊はそうした一群の中で特出して居られた。

だが同時に如来(真理から来た人)とも称せられている。このお経で面白いのは、アバヤ(無畏)王子が幼児を膝にしながら釈尊と対話している事である。それは充分な尊敬を持つと同時に親しみを持っている事の現われであると云えよう。お経を上げに来たお坊さんがお茶も飲まずに先を急ぐといった、職業形態とはまるで違う。ともかく釈尊やそのお弟子たちが、忙がしくされるといった事は想像も出来ない。それでも沢山の弟子信者を正導しておられる。それは何故だろうか。簡単に云えば金がかからないと云う事である。野宿や空き小屋での寝起き、日に一食、特定の祭り行事もなしというのだから、まさに無一物で生きておられたので、本来無一物などとタテ前を云々する必要もなかったのである。
三宝 162号)                      田辺聖恵


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