「釈尊仏教とは三宝帰依なり」 信とは純情

 信とは純情
信というと、日本ではすぐに信頼、お助け下さいとすがりつくという方式にとらえてしまいやすいが、本来、信はまごごろ、一心、教祖の言に対して、あゝ思い、こう解釈するといった二心を持たないということである。つまり粋真、純情であるということである。

開祖の言をそのままに受けとる、自分に出来る限り素直に受けとる努力をするのでなければならない。努力しないと出来ぬほど今日はごう慢になっているのである。

今日の私共は、あまりにも知的になりすぎている。学校教育の長さもあろうが、物的生活が豊かになってきたことが、あらゆる面で選択する自由というか機会を与えてくれる。鍋一つ化粧品一つ選ぶにしてもつねに選択する。この選択をするたびに知能は進む。こうして知能がどんどん進むと、心情はそのかげにかくれてしまって、むしろ退化してゆく。今日は少くとも「信ずる力」というものは、大いに退化したと考えねぱならない。自分が理解(知能的了解)できないことは、たとえ目で見ても信じられないのである。これでは信を土台に、信を入り口として、救われ(心情的安定)や覚り(知能的安定)を目指す宗教が縁遠いものとなるのが当然である。

かっての信仰は、生活が苦しいが故に求めるという面が確に多かったであろう。今日のように物が豊かになり生活もそんなに苦しくないようになれぱ、すがりつくような信仰は次第になくなってくる。

しかし、もっと根源的に、物が豊かになり、知能的になったがゆえに、純真な心情を失うということを考えねばならない。生活が豊かになって、しかも慢心を持たないということは、よほどの人でないと出来ない。なぜなら慢とは、自分自身で気づかないことなのだから。

知能とは、多くの場合、これとこれを分けて、こゝがこう違うと知る、いわゆる分析知のことである。これは選択とほとんど同じであるから、より豊かに、より便利に、つまりより幸せを比較しての選択的幸福論でゆくと、人はますます知的になってしまう。そして心情の退化を気づかぬどころか、純なる心情などを軽蔑するようになる。つまり感動を持たない文化人間になってしまうのである。
(浄福 第76号 1980年1月1日刊)      田辺聖恵

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