「在家者の修行」 (上)

 「在家者の修行」(上)

在家信者と出家修行者との違いは、修行をするかしないかの違いと云ってよいかも知れない。原始仏教においてはその事がハッキリしている。その修行とされていたのは主として静思(ジェーナ=真理の瞑想)である。もっとも釈尊は三種の修行を説いておられるから一つと決めねばならない訳ではない。

その三通りとは見至と身証と信解である。見至は徹底理解・身証は体得・信解は信の徹底。いずれも徹底化がなければ修行とは云えない。月に一度半年に一度といったものを修行とはとても云えないであろう。

修行はもともと、縁起の真理(後には空や本願)を学習し、体験化し、生活化し正導する事を目的とするものである。理解-静思-信、この三つは一人の人間において三つとも必要だと分かる。まるで理解出来ない事が信じられるものではないし、体得に行きつくと信じなければ静思をやってみる気にもならない。

この頃はテレビでも僧侶の坐禅振りがよく紹介される様になった。それは珍しいという事であろうか。珍しいというのであればあちこちではなされていないという事を意味する。こうした僧侶の坐禅がたとえ一種の資格試験を意味するものであろうと、その修行自体を厳粛なものとして見る事が出来るのは有難い事である。

かつて釈尊の信者であるチッタ長者がいた。そして一般的な信と知恵(覚り)との関係についてよく理解していた。教えによると、信・戒・聞・施・慧(信者の五法)も信・勤・念・定・慧(修行者の五根)も、信から慧へ~信が徹すれば慧となるとなっている。

チッタ長者は自からも静思行を永年続け、心の統一において四段階をマスターしていた。これは長者として生活に余裕があったことと、求める心が強くあったからのことであろう。このようにして覚りの一歩手前まできていたことが、彼自身の言葉として分かる。

ここで感銘を受けることは、この様に心が進んでいるにも関わらず、多くの仏弟子たちに供養をし、尊敬をささげたという事である。

自分なりに心境が進めば、後進の出家修道者に対して尊敬供養などは次第に薄れてくるのではなかろうか。しかし釈尊仏教においては個々のビク修道者がどの様な段階であるうと、サンガの一員である以上は三宝の中の一宝として(サンガは修道者の和合衆=宝)信者から尊敬供養されるものであった。

今日の日本の様に寺や僧侶の感情的な批判を専らにし、では自分は正当信仰を持つかと反省する事がないような次第とおよそ異なるものである。
三宝 第157号)                  田辺聖恵


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