「活き活きとした信仰」 (下)

「活き活きとした信仰」(下)

釈尊仏教が何故、活き活きとしたものであったのだろうか。それは『人間対話』であると私は考える。このアバヤ王子は難問に対してどんな反応を、この高名な宗教者は示すであろうかと大きな興味を持って対話する。それは絶対仏にひれ伏すといった権威的な信仰ではない。日本のように長い間、権威主義を当然のこととしてきた所ではいかにも秩序整然であるが、対話的な活性を望むことは難事中の難事であろう。建物的な荘厳さで人々を威圧するのをハロー信仰と云う。後光信仰の事だ。釈尊はしばしば林の中で対話をされる。

建物的な舞台装置を一切使われない。自分一個で、すべての人に相い対しておられる。もっと厳密に云えば、自分で自己に対しておられたのである。これ程俊厳な事はない。

対話というものは、ある程度の対等性を持つ所に成立する。全くの上下間では、お説拝聴とお説教はあるがまず対話は形をなさない。そうした所に活き活きとした信仰が生じるであろうか。

活きた宗教というものはその教者によるものではない。それを学ぶ者、信受する者が活き活きするかどうかによるものである。つまり信受者に出番があるかどうかだ。ここを考えると、日本式絶対仏は絶対だから一人働き、信者の出番がほとんどない。

さて釈尊仏教における『人間対話』とは何か。その中心は「人間いかにあるべきか」という事である。それは真理を中心にする事がら出てくるものである。単なる道徳論でもない。福祉幸福論でもない。時代に左右されて、かつては善とされていたものが、今はまずいといった変転しやすいものではない。幸福といって、欲望を肥大させてとどまる所がないといったものでもない。

釈尊仏教における真理とは「一切は縁起する」というすじ道である。これは地球上のどこにでも、またどんな時代でも通用するすじ道である。しかもこれは教えられれば小学生でも分かる実に分かり易い理法である。この分かるという時に、それを活用する事が出来る。分からねば使いようもない。この分かる事、使える事、これが釈尊仏教の特長である。不思議な世界とはまるで違う。

この王子と釈尊の問答対話でも、分かる事で進められている。よく分らないが何やら有難いという、宗教感覚は今はほとんど無くなっている。釈尊仏教がかつて何故活き活きとしていたのだろうか。

縁起という分かり易い真理、容易にその生き方に応用出来るという事、これが真の理由であろう。従って今日でも、これからの日本でも心ある人々を活性化させるものであるに違いない。
三宝 162号)                      田辺聖恵


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