田辺聖恵 の検索結果:

機会はどこにでも

…らたいものだった。あまりひらたすぎて、名僧知識にはもの足らなかったのであろう。 今、私はこのエンマロボットの話によって、人の位になれる道を知ることが出来た。何とも愉快でしょうがない。私のまわりには、成仏などとはおよそかけはなれた、エンマロボットが仲良くケンカしている。せめて人になれたら、どんなに有難いか知れない。 「解脱、安らぎを得て楽しんでみたらどうか」と釈尊はご親切に説き聞かせて下さる。平たく、人にならせてもらいたいものだ。三宝 第125号 1984年2月8日刊 田辺聖恵

戒と律は生活法

…践なさった。一ヵ所に七日以上留ってはならない−これは律である。それは信者に負担をかけない様にする、ということと特定な安易親密な関係を作ってはならないという事だ。これは信者を導き、信者は感謝の供養をする、お互いの「法施→←財施」によって成り立つ互恵原理の実践による生活を、仏教者の生活とするからだ。こうした生き方として仏教を捉え直さない限り、全く無用のものとしか感じられないであろう。その徴候はすでに毎日、見たり聞いたりする所である。三宝 第124号 1984年2月8日刊 田辺聖恵

高度な宗教

…釈尊の時代と非常に似てきているのである。つまり私の様なささいな凡なる者でも、直参?が可能な時代、何と有難い世の中にめぐり合わせて頂いている事であろうか。今や日本でも、形は従前通りの信仰様式とし、実質的に本物の宗教(本当の価値ある生き方)を求める人が多くなっ てきている。実質的改宗がどんどん行われている。まことにめでたい事である。いかなる宗派も実質真価をもって大衆に面しなければならないという、本物宗教の時代になりつつあるのだから。三宝 第123号 1984年1月8日刊 田辺聖恵

聖と俗の違い

…を示す。ここから次の問題が出てくる。半僧半俗と非僧非俗の区別が着きにくくなる、ということだ。そこで仏教の場合には、やはり原点を確かめる事が必要になる。在家主義の仏教などは本来無いのであるから。 在家であって出家性を求めるのか、僧侶であって在家性を求めるのか、常時自問自答するためには、つねに出家、在家の本質を明らかにしてゆく必要がある。さもなければ仏教は、日本において完全に消滅するより外はないであろう。すでにその危機にあるのだ。三宝 第122号 1983年12月8日刊 田辺聖恵

仏教は楽しき学習なり

… この一分を得れば安心である。あとはこの「安心」をより深めれば良い。人によって朝聞夕覚があった事実を知るべきである。 賛歎から帰依へ 仏教は素晴らしい。という人は多くなり出した。ところが帰依という所までゆくのは、またまたひとしきりのへめぐりが要る。己の気位が邪魔をするからか。それと母の願いがこめられているかどうか−という素質的伝承の有無。木に竹はつなげない。まず女性の中に価値的母性が啓蒙されねばならない。まさに日本の道は違い!三宝 第121号 1983年11月8日刊 田辺聖恵

仏教上の心構え

…作ってしまった。この点大いに仏教指導者側は考えるべきではなかろうか。 たとえ修道はしないでも、この道を信じ、如来(仏け様)を信じるだけの者でも、ある程度の境地、つまり喜びに入れる。ただしそこは天国となっている。もっと程度の高い結果を望むなら、それだけ熱心さが必要となる。自分に属しない物とは何か、つねに学習を深めてゆかねばより大きな、本物の利益、幸福を得る事は出来ない。しかし道は、明らかに用意されている。あと自分自身の自発性だ!三宝 第120号 1983年10月8日刊 田辺聖恵

真理を実践正導されるブッダ

…切り売りをすれば芸人に等しい」 釈尊は身をもって仏教者の在り方を実践されている。そこから信者の尊敬も生じてくる。善い話を聞いた(自分の欲得が満たされた)だから供養する、というのでは心に汚れがある。もっと純粋な尊敬と感謝の心をもって供養、布施善行をする。ここに信者の道、将来自己を成熟させてゆくスタートがある。この短いお経(三宝法典 第二部 第四四項 たがやしバラモン)に、事実を通した仏教の真髄がある、と云ってよいのではなかろうか。三宝 第119号 1983年9月8日刊 田辺聖恵

丸一年経ちました。

…て一年になりました。田辺聖恵師の遺稿を何とか再度世に出したいとの思いでしたが、横道にそれながらも何とか続けることが出来ました。20年以上前の文章ばかりですが、ほとんど問題なくそのまま受け止められたのではないでしょうか。途中で分ったのですが、老師が使っておられた「三宝会」という名前が、とんでもない団体の名前と一緒だったのには驚かされました。簡単に操作される世論とはおそろしいものです。 投稿する文章に叱られ、助けられの日々をいま少し続けられることに感謝。ハテナの「千暖斎室」も宜し…

おシャカ様から問われる

…固さがかくされているのではないか。 師が一代かかって現じようとする所を、その千分万分の一でも行現しようとする所に−弟道が現われる。師道と云う言葉はあるが、弟道と云うのを聞かないのはなぜか。それは師にはなり易いが、弟子にはなり難い事を示すのではなかろうか。 師とは目的を達成したかどうかを判定するものである。サラバがかっての師に答えられなかったのは、その自己判定が根拠のないものであった事を示す。自尊心が取れていなかったからであろう。三宝 第118号 1983年8月8日刊 田辺聖恵

経集 70

…ゆかう。(毎田周一訳 釈尊にまのあたり 一周会刊) はげしき愛の滅尽を望み怠らず、唖つんぼならず、多聞正念にして自ら制し精進し、法をおしはかり一人遊行なすこと犀牛の如くせよ。(田辺聖恵訳) ◎激しい愛欲と斗わない限り、真の仏教とはならない。そこを通って初めて、真理正法への真愛を体得する。自制も精進も、この真の法愛に導かれる。苦難を逃れる消極性が、真愛に目覚めつき進む積極性に転換する、これが回心の道。一人遊行とは法と共なるが故に、他を要しないという満ち足りのことである。田辺聖恵

信者の道は施

…れるのでもない。誰でもがなし得る道、それは当り前の道である。人々はとかく超能力を求め、特別のご利益を求めるのは、今日でも多々ある事。ところが二千五百年も前に、真理を中心にして自ら生き、人々にそれを教えて、一生旅を続けられた方が居たのである。それはまさに驚異と云わざるを得ない。そしてその弟子となった多くの人々、それらを善施によって支持していた人々があまた居られたという事は、今日者としてまさに敬服以外にないとでも云うべきであろうか。三宝 第116号 1983年5月8日刊 田辺聖恵

経集 69

…犀の角のようにたゞ一人歩いてゆかう。(毎田周一訳 釈尊にまのあたり 一周会刊) 独坐と禅思とを捨てず、すべてに法の如く行じ、すべてのものに患難を見、一人遊行なすこと犀牛の如くせよ。(田辺聖恵訳) ◎ジエーナ、サマーデイ(禅思・三昧)は無念無想でなく、法を静思し、法との一体化を自己の上に確立することである。法とは縁起正法。日常一切を日常の心で見れば、苦楽無限結局は禍わいである。まずその鋭敏な感覚が入信の第一。大いなる苦のみが大いなる真楽に通じる。それは独個の道でもある。田辺聖恵

出家と在家

…食→←信施供養』 この最低ギリギリの結びつきを通して、専修者は法施をし、信者は財施をする。そこに権力が割込む余地もなく必要もなかった。 そこには、自発を行動原理とするすぐれた民主をこえた、大衆性があった。そこに今日の日本の民主主義を打解する、高度な大衆主義を見出す事が出来るであろう。真理を尊敬理解し、その実践への仲問づくりをする所に、人間の本質に根ざした大和合の集団が現われてくる。その片隅の一員でありたいと、私は願って止まない。三宝 第114号 1983年3月8日刊 田辺聖恵

経集 67

…のようにたゞ一人歩いてゆかう。(毎田周一訳 釈尊にまのあたり 一周会刊) まず憂れいと喜びと、次に苦と楽とをなげうちて、捨と止と清浄を得、一人遊行なすこと犀牛の如くせよ。(田辺聖恵訳) ◎幸不幸苦と楽が相対のもので一生をかける問題でないことをなるべく早く気づかねばならぬ。捨は施に通じ、己の物と己そのものを他に役立て、邪悪の思慮を停止して、正善の真理法に一体化する身の行いにょって清浄化する。他を省みず一人なりとも独行するところに、真の仏教がある。確に厳しいようだが。(田辺聖恵)

法によって平常心

…たのは当然である。このように仏教の直接指導は、言葉によったから、その言葉の使い方、言葉の種類などに重視をされたのはもっともな事である。 『縁起説』は関わり論である。そして最終的には人間同士の関わりになってくる。関わりが真理だからである。であればよりよき関わりを持つ以外に、価値を見出すことは出来ない。仏教を実践するとはよりよき関わりを実現すること―しかもそれが慈心・平常心によって貫かれるということである。言葉の重視が必然ともなる。三宝 第113号 1983年2月8日刊 田辺聖恵

「正念」を呼び起す

…いうものは、虚構のことであるから、今日はその清算の時ということであろう。 こう考えてみると、仏教としては、何もかも、これからスタートつまりまず予備知識、啓蒙運動から始められなければならない、ということになる。そこから生ずる自発のものが信仰となる。強制がとれて、自発の原点にきたということは、実に輝やかしい時代の到来である。これから本当の自発による仏教者がどんどん現われてくる、その環境がすでに調い、いよいよ幕あけと云ってよかろうか!三宝 第112号 1983年1月8日刊 田辺聖恵

法の相続者たるべし

…真理に合致した生き方行動をすることによって、理性と感情とが価値的に統合されるということ。そのようになることが『静けさに住む』ということである。 この静けさに住むのは難しいことではあるが、まずその実現のために、学習しさえすれば誰でもいつかは行きつけるという、難行でも易行でもない、中道が釈尊によって用意されていることは何と有難いことであろうか。まずこの中道を知りかつ信じる所から、生き生きとした仏教が始まるであろう。法の相続への道が。三宝 第111号1982年12月8日刊 田辺聖恵

仏教の素因

…という二つにして一つのものが、満足する回答でない限り、釈尊は満足安定することは出来なかった。そしてその答までに六年以上の求道期間を持たねばならなかった。 そしてこの深層欲求に対して自らの深層意識が真理をつかまえることによって答えられたのである。その将来を予測せしめるのを、釈尊ご自身の幼少生育史の中で明らかに知ることが出来る。こゝに『仏教の素因』があることで、仏教の理解が正確になされ得るのであるからまことに有難いことである。合掌三宝 第110号 1982年11月8日刊 田辺聖恵

「生きていることの意味」

…も一体というサマーディ(三昧なりきり、等和)となってゆく。こゝにおいて真の解脱、仏教の最終目的、学習の完了となる。 自分の人生目的としての学習が終れば、あとは他の人々にこれを伝達するという自己を超えた生き方となる。これは人間としての理想という高次目的となる。 信者としては、これらの求道正導者のあり方を聞信することによって、尊敬と感謝と賛嘆と供養をさゝげ、それによって安心を得、いつの日にかは己もそうありたいと願うということである。三宝 第109号 1982年10月8日 田辺聖恵

仏教の本質・人間の本質

…か、生き方というものがある。まず、真のむなしさに気づかせる。ということ、ここに心情と理知性の高度な人間性があるということを啓蒙して下さったのが釈尊である。 釈尊こそ、人間の最高度を自覚し、しかもそれを多くの人に正導伝達するために生きられた、まさに理想の人間である。ブッダという本来の意味はそこにある。人間として可能な限りの価値ある生き方をなされた釈尊、その万分の一でも学習し、まねをしてゆく、そうした生き方にふみ出したいものである。三宝 第104号 1982年5月1日刊 田辺聖恵

経集 61

…多し、これは釣り針なりと知りて、識者は一人遊行なすこと犀牛の如くせよ。(田辺聖恵訳) ◎あれもこれもとはてしない欲望が己を束縛するのみならず、人間の存在理由すら分らなくするものであることを気づくのはやはり中年に至ってであろうか。真の幸い真の楽というものは説明をこえるもの、覚や救われの真境は尊師を見ると信ずるより外ない。今日の困難さはその師表がいずこにあるかという事。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ

仏教の真ずい

…誰に本当の原因があるのであろうか。 よき法すら捨てよと云われる釈尊の、この適確な法への対応をこの際、大いに学ばねばならないであろう。そのためには、法という専門語そのものがよく分らねばならない。法にはいろいろの意味があるが、目的としての法と、その目的に到達するための手段としての法がある。 目的としての法−真理(悟られるべき内容) 手段としての法−八聖道(日本では各宗異なる) 目的と手段をつねに明らかにする努力が最優先せねばならない。三宝 第102号 1982年3月1日 田辺聖恵

まことの生き方

…る前の姿、ボサツである。仏教者はこのボサツ道、正導行をせねばならないと強調したのが小乗ではいけない、原始仏教、釈尊仏教に帰らねばならない、それこそ大乗仏教であるとしたのである。 日本では大乗を哲学の深化と受けと名面が多いが、利他正導の道を開いた日本の祖師方はすべて正導に生きた方々である。仏教の初心とは実にそこにある。正導こそ、互恵真理の実践であり、真の「生かし・生かされ」の人生である。生死を超えた価値がそこに現われるのである。 三宝 第101号 1982年2月1日刊 田辺聖恵

経集 58

…賢明なる友と交われ。義利を知り疑をおさえ、一人遊行なすこと犀牛の如くせよ。(田辺聖恵訳) 多聞とは同じ法話を数多く聞いて身に着いた者というべきであろう。多く知り、しかも心定まらずという今日的風潮は賢明さにほど遠い。善き友とは已に徹底してゆく者のこと。法の意義とその利益を知るー悟りと充実感こそ仏教。人間そのものへの疑問を解いて、真理の具現者としての一歩々々を歩むべし。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ

死から生、生から死

…力が必要である。このように自由であるということは、又自ら生き方も学び、知って選択せねばならないのである。宗教者はそのために啓蒙活動をせねばならぬし、学校教育も、生き方として宗教を取りあげねばならない時に来ている。非行の火の手が上っているのは、実は正行への浄火なのである。 死を考えるためには、充分な生を考えねばならないし、生を考えるためには、死そのものが、充分に考えられねばならない。ここに宗教としての、他に見られない特徴がある。 三宝 第100号 1982年1月1日刊 田辺聖恵

在家としてどうするか

…者においてはそこまでの徹底、自己確立が出来がたい。正定、不退転の位とは、信仰において後がえりはしないが、徹底の覚り、絶対の救われの体験にまでゆきついていない段階のことである。死後を畏れるということは、生き方を真剣に考えるということ。又、死後だけを祈る信仰もあまり価値あるものとは云えない。まず、施善が出来るようになったかどうかーによって自己の信仰状態、程度をテスト出来よう。仏教とは常に『どうするか』に本当の比重があると云えよう。 三宝 第98号 1981年11月1日刊 田辺聖恵

釈尊の聖言  「八聖道最後の人」

…ンドにおいては絶滅した。その意味において釈尊は嘆きの人と云うべきかも知れない。 ◎このように八つの道を示されゝば、器用な日本人はたちまちこれを「たゞ一つ」にとりまとめてしまう。そして今度はそれでは足りないからと儒教との二本建てをはかる。信仰と道徳を分離してしまって、それを純粋と錯覚する。人間としての生活面をぬいてしまって、どうして宗教と云えようか。つねに先走ってきた日本の歴史をこの辺で、じっくり見つめる必要がある。八聖道を知らぬでは、最後の人にすらなることが出来ない。田辺聖恵

仏教は学び体得するもの

…求される。 釈尊仏教の努力とは、師説をそのまゝ学習し、体験化することで、その修行はジェーナ(静思冥想)である。理解能力の知恵を使って自己の深層意識において納得了解する、これが努力精進である。 知恵とは縁起の真理という師説を自分が本来持っている知恵で了解することである。いわば教えられた師の知恵と、自己の知恵とが一体化するというか、師の知恵にまで引上げられることである。何も自分で考えつくということではないから、誰にでも可能な実行法。 三宝 第97号 1981年10月1日 田辺聖恵

砂漠という自然

「砂漠という自然」 ゴビの砂漠は人を寄せつけない どこからともなく吹き起る風にのって 砂は舞いすべてを覆いかくす 人間にかかわりを持とうとしない そうした自然もあるということを 私たちは忘れてはいないだろうか 興亡斗争をくりかえしてきた人類は 今もなお武器作りに余念がない 自然の本当の姿を知らぬままに 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ

釈尊の聖言  「三宝への信」

…方は日本では出来ていない。後期仏教が、ブッダの中身は法にあり、法は永遠絶対であるから、その法の現われのブッダは絶対とした為に、法とブッダが一体化し、三宝が不分明になる。 ◎仏げ又は本尊として一つにしぼると有難味は増すが、理解の及ばないものである。従って理解を求めない人にとっては最高のものになるが、理解を求める人にとっては全く不要となる。已がどちらのタイプであるかをまず分析し、已に適した方を選ばねば、何ら自己の転回に役立たない。役立たねば単なる習慣となり宗教でなくなる。田辺聖恵