戒と律は生活法

「戒と律は生活法」
「サンガは 世尊の弟子の和合衆、善く正直に修行なし、正しく暮らし道に入る、四組八人の衆にして.礼賛供養に値いする、こよなき世間の福田なり。」
 日本の場合、信仰や宗教で、あまりに信が強調され、その信者や修行者の生活面が、どうも明らかにされていない様である。それは後期経典に重点を置くからそうなるのであろう。一例すれば、ハンニャ心経。多くの方がこれを知っている。これは仏教的知恵−空を説いたものである。しかしそこには生活の断片も説かれてはいない。
 一切は不生不滅、空智の極位(極意)を示してあるが、これだけでは宗教生活は出てこない。そして乱暴な事には、これは有難いお経だから不思議な力がある−という考えでご祈祷の文句に使っている。中味は病気など無い、としてあるのに、しきりに病気直しに使う。どの様に救われたいか、どの様にわが願いをかなえてもらえるだろうか、という自分の願望から、すじ道など聞き知ろうともせぬ、なりふり構わぬ信仰ぶり。ある時点では、その狂乱ぶりに合わせざるを得ないかも知れない。しかし啓蒙の段階では、そうした信者のワラをもつかむ心情を利用しているわけにはゆかない。
 原始経典によれば仏教者(修行者と信者)の生活法はしばしば明らかにされている。特に修行者の方は、条文として定型化されている。上の一文はサンガの内容、在り方を明確にしたものである。
 サンガとは世尊つまり仏け様、おシヤカ様の弟子の集団の事。サンガとは組合などの集団の事であった。これを漢字で僧伽という字を当てた。(音訳−音写)サンガと認められるためには、最少、四組八人の仏教者がそろわねばならない。悟った人を頂点にして悟りつつある人達の八人以上のそろいが必要なのである。
 日本の様に一寺一住職という形が出来上ってしまうと、一人のお坊さんを僧と云うようになってしまう。それはビクである。昔はサンガ(集団)に属していなければ、仏教の一員とは認められなかった。さてその集団に所属してゆくにはどうしたらよいか。
 人間関係をよりよく維持するためには、当然規律が必要になってくる。それが『正しく暮らす』という事である。集団での修行となれば、奥さんや子供連れでいって出来るものであろうか。ここで正しく暮らすとは、男女関係を持たない事でもあり、托鉢乞食によって食事をするという事である。つまり生きる人間としての根本問題、食と性の問題対応、この根本対策が立っていなければならない。教理、哲学などは、いわばその裏打ちでしかない。ところが、生活面をぬいた観念を優先させると、哲理の方に比重がかかる。
 仏教は生き方が主題
 先祖供養を仏教だと思う人が多い。または死後の極楽往生が主だと思う人が居る。前者は死んだ人の霊を救うのだと考える。後者は死後の安楽を願うが、といって霊が極楽に行くというふうにハッキリ聞知したわけではない。霊と心の区別がつかないままのアイマイ。
 釈尊は霊的な問題をいわば深層意識的な捉え方で変転するものとされている。固定した本体としての霊はおかしいとされたのである。ではどこに重点があったのか。正しい人間理解によって、深層まで自己を転換して、ーつまり真理に合致した、いわば活き活きとした生き方をする、という事である。
 ところが、覚りとか成仏とか、難しく専門語化した漢文字をひねくって論じるから、その一つ一つの文字の意味の取り違いで論戦するという、ドロ沼合戦になりやすい。仏教が生き方の問題だ−として根本が押さえられていないからだ。もっともこうなると、僧侶、サンガの一人々々が、自分の生き方をもって、釈尊の教理を実証してゆかねばならなくなる。この本当は当り前の事が、怠っていれば大変な事になる。もっともらしく衣(これは修行の服)を着て、お経を有難そうに上げていれば良いといった事ではなくなるからだ。
 戒は生活上のいましめ、心構え、道徳である。律は修行者、集団の一員として守るべき規律条文である。これらを守ると誓いを立てて始めて一員として認められる。従って違反すれば罰則によって処分される。最大の罪に対しては「首を落とす」つまりサンガからの永久追放がある。こうした生活規律を土台にして、真理を体験し、生活化してゆく事が実際に可能となる。生活規律を破綻させて生きる事は、なかなか凡人に出来る事ではない。
托鉢乞食が原則
 日本仏教には在家法が明らかではない。釈尊仏教では、在家信者の道が明らかにされている。妻帯は認められる。ただし、あやまった男女関係は戒しめられる。「他人の妻に近づくなかれ」と具体的に教えられている。それは本人の心がどうだよりも、それによる社会性を重視している。道徳たるゆえんだ。性欲にひかされるなら、在家信者として信仰を進めればよい。それでも、覚りの一歩手前まではゆけるとなっている。
 日本では性欲を煩悩とし、それを断つ事を苦行と思ったり、修行と考えたり、不可能だと決めつけたりする。いずれも釈尊仏教の誤解、または未知からのものと云わざるを得ない。これよりも食への根強さ、それこそ生命の存続に直接かかわる−これに直面し対応する事の方が、より根本的な生き方の問題になる。釈尊仏教の場合、食制こそ問題であった。「食の量を知り」という事が修行者のいわば第一の心構えであった。何故なら托鉢乞食だからである。
 権力者に傭われて寺に住み、食の心配がない永久就職などとは全然違うと云わねばならない。釈尊は野宿し、一人して行け−と云われる。自らも実践なさった。一ヵ所に七日以上留ってはならない−これは律である。それは信者に負担をかけない様にする、ということと特定な安易親密な関係を作ってはならないという事だ。これは信者を導き、信者は感謝の供養をする、お互いの「法施→←財施」によって成り立つ互恵原理の実践による生活を、仏教者の生活とするからだ。こうした生き方として仏教を捉え直さない限り、全く無用のものとしか感じられないであろう。その徴候はすでに毎日、見たり聞いたりする所である。

三宝 第124号 1984年2月8日刊 田辺聖恵