仏教は学び体得するもの

「仏教は学び体得するもの」
   生き方を土台にする仏教
 ふつう「仏さまは信ずるもの」と思われている。信仰と仏教の違いが明白ではない。
 信仰−救い、教え、真理、力、神秘などを信じる
 仏教−真理を教えて貰い、これを学習する
宗教とは、宗{ムネ、一番大切なところ}の教え、人間にとって最高の教えーということである。その宗教の中の仏教は、仏(ブッダ)の教えである。ブッダとは、真理「人間を含めた自然のすじみち、あり方」を悟った方であり、それを人々に教え、体得させる方である。たゞ信じさえすれば救って下さる、守って下さるという方ではない。信じるという場合は、たいがい超越的な力を信じ頼りにするという、力の原理になり易い。勿論そうした信仰もあってよいし、ひと次第によってはその方がピッタリくるし、必要でもある。それはたいがい神の信仰ということになる。
 仏教がなぜ神様の信仰と違ってきたか。それは、釈尊が修行中いろいろとそうした力の神と一体になろうとして苦行をなされたが、ついにそうした体験を得られなかったという事実からきている。ボディ王子に出家前と出家後の話をされたということは、仏教というものが単なる哲学、抽象的な考え方を云々するものではない、ということを意味する。出家前とは王子として、豊かな生活をしていたこと。その幸福が虚構であることに早くから気づいて居られたと、いうことである。出家をされたということは、地位、名誉、財産、愛情、家庭が全部そろっていてもなおかつ、人間の本質が分らないという人間不安はどうにもならない、ということからであろう。
 幸福に目がくらまされない鋭敏さを持って居られたのが釈尊である。これはいわばどう仕様もない人間としての資質の問題である。
 そこから、単に信ずるのでなく、神と一体になろうとする出家修行を始められる。精神統一の法もやられる、あらゆる難行苦行も六年間にわたってやられる。しかし、結局、それでは神との一体感も心の到達感も得られなかった。そこで百八十度転換して、知恵によって真理を発見し、体得し、安定されたのである。正しき楽、真の解脱、一切の苦しみ悩みからの解放は、知恵による楽しい道によって得られると、自らの体験をもって語られる。この人間生活、実体と、それを貫ぬく理性と感情、知恵と友情心、これによって人間の本質を了解、納得、体験化してゆくのが、真の仏教である。

  知恵は誰にでもある
 ボディ王子による宮殿落成式で白い布を、釈尊はなぜ踏まれなかったか。それは。そうしたゼイタク、虚栄をぬきにしたところにしか、人間の真の生き方は出てこないということを身をもって教えられたのである。仏様にとってお祭りさわぎは、何にもならないことである。真の生き方を求める以外に、仏様に答える道はない。
 仏教は釈尊が悟られた真理(縁起)、一切は縁によって生じ、縁によって滅してゆく(厳密には生滅するように見える変化があるのみ)ということを学習するものである。学習するということは、その真理を体験化し、生活化し、それをさらに正導することである。
 仏教ー真理の学習・体験・生活化・正導
 学習するということは知恵を使うということである。人間には知る力がある。分る力がある。その知ったことを自己化して活用する知恵がある。
 ところが一般には、知恵というものを、非常に高級というか複雑というか、特殊的なことを知る、使いこなすことを知恵としやすい。そのために、仏教の覚りもそうした種類の知恵と混同され、誰でも容易に近づけるものではないとされてしまっている。これは、日本の僧侶たちが、あまりに特殊的に哲学化してしまったということが影響しているのかも知れない。    
 釈尊はその教えを学習して、一日で体得する者もあると明言しておられる。それは、すべて変化するというこの自明のような真理観を素直に受け入れるだけのことであるから、その気持、信、まごころがあるかないかのことで、哲学的能力があるかないかということは、まるで異質なのである。
 日本の祖師方の論述、研究論文を大衆に紹介しようと抽出を試みると、いかにそれが難しいかが分る。それは聞いたこともないようなお経の引用を数限りなくしてあるからである。このようにお経について博識でなければならないとしたら、ごく少数の知的記憶的理解的能力のある巨大知恵者でなければ、どうにもならないということになる。ヒエイ山で十二年勉強せねば一人前の坊さんとは見なされなかったというのは、サモアランである。であれば、おシャカさまは嘘をついたのか、ということになる。   
 私共は、知恵ということそのものをもっとハッキリさせねばならぬであろう。お年寄りでも女の方でも、自動車の運転が学習すれば身につく。これは知恵である。そうした知恵能力は誰でも持っている。だから誰でも、仏教の真理を学習する知恵はある。一切は変化するということは、まず小学生でも教えられれば分る。ところが後期仏教のように「空」である「無」になり切れなどと云われたら、もうよほどの人でないと分ることすら出来ない。
 縁起する、変化するというこの釈尊、直接の教えであれば誰でも分る。それは誰でもが持っている程度の知恵を使えばよい。つまり知恵によって学ぶのであるから誰でもが出来る教育方式なのである。この簡単明了な教えが『ああそうか』という気になれないのは、知恵がないからでなく、なまじっかいろいろなことを知りすぎ、また自己の欲望中心の心が根深いからである。
 今日、複雑な後期仏教から原始仏教へという一つの潮流が起りつゝあるのは、人間理解が進んできたからとも云えよう。つまり覚とか仏の神秘化をとっ払って、自己の可能性と結びつけるという発想が、現代人に出来るようになってきたということである。その学習のために、
 学習五つの性質−信・健・正直・努力・知恵
 釈尊がこの五つの性質を解明して下さったことは、まことにありがたい。いかなる凡人でも、この五つの性質があれば、いつかは真理体得にゆきつけることを教えて下さったのであるから。
 三宝帰依とは信・まごころのことである。ブッダとダンマ (真理)とサンガ(求道と指導の集団)を信ずるということから仏教の学習は始まるのである。誰でもが出来る道なのである。
 健康は単に願わしいというよりも、学習を健全にするためには是非必要である。何故なら身体の健康は心の健康を意味するからである。もし心にゆがみや極端な先入観があれば、仏教を習っても、身にはつきがたい。特に弟子入りする時は仲間に迷惑をかけるということもある。ましてや病気直しが仏教ではない。
 正直ということは師の教えを素直に受け入れ、云われた通りに学習し、修行するということ。特に師説を勝手に取捨選択などしない。
 努力とは決して日本式になった難行苦行などではない。精神統一や霊感、病気を直す念力などを目的にすると、これらは精神能力を極度にきたえて集中するものであるから苦行性が要求される。
 釈尊仏教の努力とは、師説をそのまゝ学習し、体験化することで、その修行はジェーナ(静思冥想)である。理解能力の知恵を使って自己の深層意識において納得了解する、これが努力精進である。
 知恵とは縁起の真理という師説を自分が本来持っている知恵で了解することである。いわば教えられた師の知恵と、自己の知恵とが一体化するというか、師の知恵にまで引上げられることである。何も自分で考えつくということではないから、誰にでも可能な実行法。
三宝 第97号 1981年10月1日 田辺聖恵

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