「生きていることの意味」

「生きていることの意味」
釈尊は不治の病いをもって居られたわけでもない。老人であることの悩みをもって居られたわけでもない。死ぬことへの不安をもって居られたわけでもない。それなのに釈尊は、老病死などの憂れい悲しみ苦悩からの脱却としての道、仏教を求めかつ完成され、しかも一生自らそれを実践して生きられたのはなぜであろうか。
 釈尊が人間存在の一切を苦と判断されたのはなぜか。それは生理としての苦痛を云って居られるのではない。人間の一生を通観するならば、それが最後には死によって終ることは誰にでも分ることである。多くの人はそれはどうにもならないことゝして、その事にこだわらない様にする。又あまりにも貧しければ、目前の喰うために働らくことがせい一杯で、そんな事を、考えているヒマなどないとする。釈尊は余裕のある環境、深い感受性、徹底して考える資質を与えられていた。そのために少年の頃から思索に思索を重ねる風であって、遂に出家をしてのいわば生命をかけての求道となった。
 人間が生きてゆく意味が分らないこと、納得のゆく答が得られないこと、これが釈尊をして一切皆苦と言わせているのである。
 出家されてからの釈尊は、当時のさまざまの求道を全部試みられる。しかし満足な答が得られない。それはなぜか。そのほとんどが感情の法であって、理性を満足させるすじ道論が無かったからである。そこで従来法の限界を知られ、独自の冥想に入られ、ついに真理正法を感得され、理性と感情の二つ共に満足せしめることが出来られた。まさしく生きている意味を了解されたのである。
 釈尊は自らの体験、体得をもって求道者としての最終目的を解脱 (ニバーナ=ネハン、正覚)とされた。勿論これは真剣に生きていることの意味を求める仏教者にとって、のものである。在家の信者にとっては、必らずしもそれを求めるのではないから、いわば世俗的な幸せと、仏教理想へのあこがれをつきまぜたような浄福を、つまり二義的な目的を設定される。こうしてみると、
仏教とは人生における目的意識の確立であると同時に、その実現への全生活−であると云うことが出来よう。
 教団や建物の大きさ、教えや礼拝行事の仰々しさなどの外形、噂などにまどわされるな、という心がけがまず第一に必要になる。
バラモンとは当時のインド教、つまり伝統的な神々の信仰を持つ人のことである。噂を聞いて開法に来たこの異教徒にとって、釈尊の法話は直ちに分るものではなかったであろう。これはこの人の大づかみと、仏教の最終目的を明らかにすること、その外にこれを縁として同席しながら共に法話を問法している弟子の人々へ、その修行の実際的な段階とその注意点を明らかになさったのであろう。
 仏教は教・行・証の三学によって成り立っている。教とは真理の教え、行とは、その学習と生活ぶり、証とは仏教目的の体験体得である。
 人生に目覚め、弟子入りして学習することは実に素晴らしい。しかしその過程において人はなぜ、慢心を生じるのであろうか。それは、無我夢中で学習をしている中に、ある程度の超越心が得られてくる。
すると托鉢などで、一般世人に接すると「おれはお前たちとは違う」という思いが必らず出来てくるものだからであろう。
 どんな境地にあっても、人間というものは、他と己とを比較したくなるものである。この優劣感というものはいわば生命力の一つの現われとみるべきなのかも知れない。優適者生存が生命の一法則でもある。
そこで、わき目をふるな〜ひたすら最終目的に向ヘ−という反省。
   法の実現
 日本においては、戒律を守ることが修行であるという誤解があるようである。戒とはいましめ、真理法、仏教を学習をしてゆく生活上のきまり、規律である。それは他に迷惑をかけない、また自分もあれこれと迷ったり判断したりせずにすむ生き方の基準である。ところがこの規律は主として弟子、つまり真理法の学習を専門に求めて来ている者に対して定められたものであるから、家庭的な幸せを求める立場から考えると、少々厳しすぎるように思えるのである。
 そのいくつかの規律の中、一切の男女関係を持たないということが厳しく思われ、それが難行、つまり修行と間違いられ易いのではなかろうか。だからこそ信者からは、その規律を守る生活ぶりを褒めたゝえ供養(食べ物など)をさし上げたのであろう。法の学習内容などは、信者にとって容易に分るものではないし、また誰しもが求めるものではないからである。修道学習者自身もそうした賞賛と供養を受けるようになれば、知らず知らず慢心が出来てくるようになるのは、むしろ当然なのかも知れない。
 そこで、また一段の反省をして、精神統一の行をする。いつかは無念無想の境地が得られてくる。さらにまた、法と我とが一体であるといった実感がしてくるようにもなる。しかし、釈尊はそれをもって最終とはされない。学習した真理法・縁起観(後期仏教で云えば空観・実相観・即身成仏観・本願観など)が自分なりに充分、解釈し直しされ、仏教徹理の裏打ちがなされていなければならない。
 仏教の目的は人生の最終目的である。それは人間と自然とに貫通する真理法を自己の上において実現し、自ら真実体として生きること−である。もしその境地になり切れば、その外の余分な想いを持つ必要がなくなる。ジェーナ冥想の間にも、自他の区別感が消えて、自他の一体感すら通りこして、しかも一体というサマーディ(三昧なりきり、等和)となってゆく。こゝにおいて真の解脱、仏教の最終目的、学習の完了となる。
 自分の人生目的としての学習が終れば、あとは他の人々にこれを伝達するという自己を超えた生き方となる。これは人間としての理想という高次目的となる。
 信者としては、これらの求道正導者のあり方を聞信することによって、尊敬と感謝と賛嘆と供養をさゝげ、それによって安心を得、いつの日にかは己もそうありたいと願うということである。

三宝 第109号 1982年10月8日 田辺聖恵

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