機会はどこにでも

「機会はどこにでも」
仏教は自ら求めるもの              
 『善を行い、聖者をそしらず、正しい見解を持つ者は、天国に生じる』その反対の者は難所に生じる。いかにも明解、分かり易い内容だが、少し考えてみるとなかなか大変だ。善を行うーと云っても一体何が善なのか今日ではよく分らない。自分に正直なのが善い、というのもある。愛情が無くなったら離婚するのが本当だと。
 聖者をそしらず−と云っても一体どこに聖者がいるのか、そしるもそしらないも、どんな事を云い、どんな行い、生活をしているのか。正見、正しい見解を持つ−と云っても、何が正しいのか。科学的に正しいを云うのか、人間の在り方の正しさを云うのか。
 今どき地獄だ天国だと云ってみた所で、子供ですら、恐ろしがりもしないが、喜びもしない。こんなことを大まじめに云っているのが仏教だとしたら、随分それは幼稚な話ではないか。
 法律上罰せられても恥ずかしいと思わず、大乗的見地?から居直る、といったおエライ方が居る。こうした方々は、いかにも幼稚ではない。複雑そのものだ。元来、日本人はアッサリ単純な者と思っていたが、肉食が盛んになって性情も変ってきたのかも知れない。
 釈尊の時代にも複雑な論理を云々する者が居た。何をしても、つまり善を行っても悪を行っても、その報いなどはありはしないという。この式だと何をしても良いという事になる。死んだらしまい、死後などありはしない。こうした考えの一派を順世外道と云う。
 現代の日本人で死後の報いを信じ、慎しむという者がどれだけ居るであろうか。又ずっと昔は、アミダ仏の手からのびたヒモを握って死後の安楽を願った貴族たちが居た。欲望の満足を死後にまで延長させようという、何ともイヤらしい金持ち信仰。およそ釈尊の仏教とは違ったものがまかり通っていた。
 エンマ大王の語り口を通して釈尊は、まことの宗教に目覚める事を説かれる。善悪の行いには必らず善悪の報い、結果が己にくるものであると。本来は罰ではない。結果があるという事だ。己がした事の原因に対して、己が結果を受けとる。たとえ地の底に逃げかくれたとしても、その結果、報いをさける事は出来ないと。
 手をさしのべてお救い下さる、といった方式ではない。何ともクールな一見冷たい宗教の様でもある。だがよく聞いてみると、仏教へのご縁は至る所、どこにでもある事が分る。五人の天使という方で、その機会が用意されている。人が生まれる事、老病死、刑罰という日常どこにでもある事、そのすべてが、仏教へのご縁なのである。取次いでくれる人があまりにも少ないので、自分からその機会をつかまなければならない。甘やかして下さるという事はない。
 人が人になる仏教    
 人を裁きながらエンマ大王はふっと已に気がつく。悪を行った者はその報いを受ける。罰はいかにも苦しい様だが、それが終れば、その先という事が考えられる。ところが、人を裁いている自分は裁かれる事がない。つまり自ら行い自ら報いを受けるのではなく、ただ役目として裁きをやっているだけの自分は一体何だろうか。
 ある世界的企業が人一人居ない深夜の工場で、機械化によって夜通し製品を作っているコマーシャルを流していた。こうして大量に安く作っていると宣伝したいのであろう。かかし私には人間をシメ出した幽霊の世界の様に見えた。人間のために物を作って人間をシメ出すという事はどういう事なのだろうか。
 私たちは、はてしなく他を裁き、批判する。しかし自分は裁かれないという安全地帯に居る。イヤ居ると錯覚しているにすぎない。
本来、仏教では裁くことはない。した事の報いを自分が受けるのである。ところがここに気付かない人たちは、法律などを作って、お互いに裁き合う。こんな所が地獄のようなものかも知れない。
 エンマは報いを受ける人間と、報いなどと関係のない非人間のロボットの様な自分に気付いた。「報いを受けられる人になろう」。これは何と素晴らしい事であろうか。悪をして悪の報いは受けたくないというのが一般である。しかしそれでは善を行い善の報いを受ける事もなくなってしまう。そうだと、永久に他を裁き、のろい続ける様なエンマや地獄の鬼になってしまう事である。報いのある人の位になる事こそ人が、人の様になって生まれてきた理由なのではないか。親らん聖人は、「地獄におちるより外にない自分」と報いを受ける人になった。だからこそお浄土に救い取られるという喜びを持つ事が出来た。報いを受けるが故に、報いを超えるという偉大さにゆきつかれた。それに較べて悪い報いはよけて、善い報いだけを受けたいという、まことに身勝手な信心しか持ち合わせない私達。まことに恥しい限りだ。
 エンマはここで願いを起こす。如来、ブッダ釈尊にお逢いしたい。ご縁を得て法を聞き、そして悟りたいものだと。法蔵ボサツが衆生を救済し、お浄土を作り上げたい、と願った話に較べると、何ともスケールの小さい、みみっちい話の様でもある。だが、死後なんかあるものかとフンゾリ返って人間のお面を着けていたり、ロボットのように他を裁くだけの機械(子供のマンガはほとんどロボットが活躍し、人間はそれに守ってもらうという話)、これではますます人間は居なくなってしまう。
 日本仏教は導入の当初から、即身成仏を第一義としてきた。なるほどそれは最高の哲学かも知れない。しかし仏は人か、仏は法かを千三百年間、ついに明らかにする事が出来なかった。そのアイマイさの中に神秘を感じ取れるものは、まことに幸いである。この身このままが仏けなどという話をさておいて、もっとひらたい話はないだろうか。何と釈尊のお話はそのひらたいものだった。あまりひらたすぎて、名僧知識にはもの足らなかったのであろう。
 今、私はこのエンマロボットの話によって、人の位になれる道を知ることが出来た。何とも愉快でしょうがない。私のまわりには、成仏などとはおよそかけはなれた、エンマロボットが仲良くケンカしている。せめて人になれたら、どんなに有難いか知れない。
「解脱、安らぎを得て楽しんでみたらどうか」と釈尊はご親切に説き聞かせて下さる。平たく、人にならせてもらいたいものだ。

三宝 第125号 1984年2月8日刊 田辺聖恵