おシャカ様から問われる

   「おシャカ様から問われる」
  仏教の早やのみこみ
 仏教に限らず、何かに対する時、その対応の仕方で、それぞれの特性を現わす。その個性の外に民族性すら顔を出す。そのいくつかを考えてみるのも大切な事であろう。まず多いのが追随型。親の云う事を聞きなさい(云われた通りしなさい)−この式で一生の伴侶まで親に決めて貰う式。宗教に対しても何らの批判も選択もしない。
 これは順調にいってる時はよいが、一たびつまづくと総崩れになる。何しろ自分の自由意志が働らいていないから、責任を感じる事がない。自心そう失に近いと云うことか。
 次には、何でも反対型。仏教は古くさいと決めてかかる。葬式儀礼とお線香を結びつけて、それでは生きる足しにはならぬではないかと。その通りの生きた宗教が仏教である事を確めようとしない。
 次には多読趣味型。いろいろと解説書なりを次々と読み、喜びはその都度得るが、それらを知識として、自分の心の外に置いておく。
 見る目が肥えてくると、かえって絵筆が取れないのと同じ。趣味は見るだけでもいいが、宗教はその教えによって自己が転換しなければ何にもならない。
 次にがこのお経(三宝法典 第二部 第七項 うぬぼれ)に出てくる様な早のみこみ型。ハイツ、分かりましたツとなかなか歯切れがいいが、その先の突っ込みがない。
 その次には喰い逃げ型。自分が気に入った点だけを取り入れて、他は問題にしようともしない。宴会の時のお料理はそんな喰べ方でよいかも知れないが(本当はルールがある)、宗教ともなると、自分の気に入らない点、コツンとくる面こそ大事なのだが。
 こうして考えてゆけば数限りなくとなりそうだ。それは一人々々の自我というものが、何世代、何千世代と積み重なって複雑化してきているという事であろう。従ってゆく先としては『覚り・救われ』という同一境であるが、その道順、対応の仕方はないし対応の仕方の変更は一人々々に応じるものが許容されねばならない。学校スポーツは野球が花形であるからと云って、皆野球をせねばならないという事ではない。つまり実行、対応の段階においては大いに微差が認められなければならない、という事だ。
 日本における仏教において、体制化の段階から個人化の段階、鎌倉時代、各祖師が、微差どころか絶大差を示した事は、大いに考えねばならぬ事である。釈尊の仏教は対機説法と云われる。それは同一目的を未だ認識出来ない人に対して、種々の説明がなされるという事である。しかし一度び、同一目的が把握出来た人に対して、その目的の自己実現法を各種沢山、説かれたわけではない。その段階からは「戒・定・慧」という定型が与えられる。この定型をふまえた上での微差でなければならない。そして大事な事は、常時、
 お前がやっている事は、自己流になりすぎてはいないか−と釈尊から問われている事を思い起さねばならない−という事。
  帰依能入  (弟道無限
 教えられたものであろうと、自分から求めたものであろうと、一生の目的を持つ事が、人間にとって一番大事な事は、仏教に限ったものではない。今日、数々の非行問題を見聞するが、それらに一貫しているのは、目的意識を持たないという事である。成人でも人生目標を持たない人はいくらでも居る。つまり内在非行だ。
 仏教では『覚り・救われ=自己における全の現』を一生の目標・一大事と云う。生きるか死ぬるかを一大事としやすいが、仏教では生きている意味・価値を自己の上で現わすかどうか、を最高とする。
 このお経のサラバは釈尊について仏教を学んだと思った。学ぶ所が無くなったと思えば師から離れるのも当然かも知れない。しかし彼は学を知って習を知らなかったのであろう。習とは実習行で学を身につけ体験化する事である。学は手段で習が目的。昔でもこの手段と目的の取り違いがあった事は面白い。誰々から学んだ(肩書き)とすれば食にありつけたのである。今日ではそれがむしろ当り前になっている。
 「卒業だけはしておけよ。後で必ず後悔するぞ!」これを云わずにすませる親教師がどれだけ居るであろうか。
「学校などは何時止めてもいい。自分の一生の目的をみつける事が一番大事なのだ」と云ってやる事が何故出来ないのか。仏教で本物の人は、人生を中途退学する。そして本物コースに編入となる。本物生き方をある程度つかんでから、生活学をやればよいのだが、これが逆転だから、結局、人生の時間切れで幕が下りてしまう。
 『師随』と追随−この後者は何にでも飛びつく無批判型だが、師随はそんな生やさしいものではない。自分の知性と信心能力をフルに使って師意がどこにあるかを、解明してゆかねばならない。そのためには、師意を問わねばならない。問うためには、何がしかの、その師についての学習をしていなければならない。これをぬいた思いつきの質問などは自己顕示の一種でしかない。問う資格があるかどうか、まず自問自答をせねばならないのだ。
 ついで、師から問われては、必らず答えねばならない。ここで冷汗をかく経験をしていない者は、未だ師を知らず−己を知らず。
「師言を聞くでなく−師現を行ずる」子は親の云う事をせず、その行う事をする−と昔から見事な「生き方解明」がなされている。
一体、師は、その言を通して何を実現しているのであろうか。師言を聞くのは容易である。未だ自己に責任がかぶさってこないからだ。聞く姿勢はまことに素直さがあるが、実行する事を拒否しようとする無意識的頑固さがかくされているのではないか。
 師が一代かかって現じようとする所を、その千分万分の一でも行現しようとする所に−弟道が現われる。師道と云う言葉はあるが、弟道と云うのを聞かないのはなぜか。それは師にはなり易いが、弟子にはなり難い事を示すのではなかろうか。
 師とは目的を達成したかどうかを判定するものである。サラバがかっての師に答えられなかったのは、その自己判定が根拠のないものであった事を示す。自尊心が取れていなかったからであろう。

三宝 第118号 1983年8月8日刊 田辺聖恵