仏教上の心構え

「仏教上の心構え」
 目的と手段
 仏教とは、人間が生きてゆく上での最も価値ある目的と、最も直接的手段を明らかにするものーである。釈尊の直説の、このアーガマ経(伝承経)(三宝法典 第一部 第三八項 筏のたとえ)も、そうした意図、内容が実に端的に表現されている事を示している。これは書かれたものでなく、対話によってなされたものだからであろう。
 この筏のたとえのお経も例外ではない。釈尊はまず、今から話されるその目的と手段を概説される。しかも目的の方が第一。解脱(執着を離れる)この仏教目的がぼやけていれば、手段も様々となり易い。さてこの目的を分かり易く、たとえ話をもってなされる。
 人ありて−とあるが、これは私だという事がはっきりしていないと、まるで他人ごととして聞いてしまう。私が旅をする−とはまさに自己を発見する求道の旅である。その私が、こちらの岸、何気なく面白おかしく暮らそうとしている、自分とその環境を、実にあぶなっかしいものではないかと、まず気付く。これが現状認識。
 では向う岸はどんなであるか、そこが安らかであると、ハッキリした時に、そちらへ向おうとする意欲がわいてくる。これが目的確立。現在の仏教衰微を考えると、この向う岸がどうも明らかにされていない様だ。さらにまずい事には、お手本になる人物がいない。
 さて目的がハッキリして、到達したいという意欲が高まってきたならば、次は手段。これは実行方式。ここではこれらは省略されている。そして、その目的を達成した後の事後処理を説いておられる。
 河を渡る目的に対して、筏という手段。目的をはたしたら、その手段の法をどうするか。その手段は確に有難いものではあるが、その後もそれを担ぎ廻るのは間違いだと説かれる。といってまるっきり捨てるのでもない。いつか同じ旅をしてきて、同じ目的に目覚めて、同じ手段を必要とする人が現われるに違いない。その人達の為に残しておく−これが一番良い事後処理であると。
 今日、ゴルフやゲートボールが盛で結構。だがそのための道具がだんだん高価になってテレビで宣伝するまでになっている。とかく手段が目的になってしまう事を示す。
 手段を持たない目的論は実現しないが、手段を優先させると、それ自体が目的となり。初心を忘れさせ易い。手段は大切であるが、目的を達成したら、それを捨てるという事は、釈尊がいかに価値的合理者であったかという事を、明らかに教えて貰えて有難い事だ。
 世評を超える
 釈尊は世間、世俗一般を超越した出世間の人として、生活し、かつ行動しておられる。平和な時であれば、それは大して問題ではないかも知れない。ところが当時インドは十六力国が争いあい、いわば戦国時代。こうした状況下で次々とそれぞれの国を旅してゆかれたのであるが、それは出世間者であったから可能であったとも云えよう。もし世間と関わりを強く持っていたならば、それぞれの国王は、尊敬を払ったり、黙認したりはしないであろう。
 本当の覚りというものは、今日風に云えば自立した自由を持つ−という事になろう。そのためには、金銭や政治権力などの支配を受けない事が大きな条件となる。そのためには仏教者はいわば最低生活をするのでなければならない。この基本線に立てば世間がどの様な評価をしようが気にする事はない。宗教者自身はそうであっても大きな寺院を建てたり、大々お祭りをしたりとなると、たちまち金集めをやらねばならなくなる。
 「一つは俗利への道。一つはニバーナヘの道、かくみ仏けの弟子たるビクは明らかに知リ、俗利の尊敬を喜ばず、遠ざかりを増大せしむべし」これは法句経の一句であるが、俗利の反対側にあるのが覚り(ニバーナ)である事を明示している。俗利から遠ざかる所に世評などに一喜一憂しない、安らぎの境地がある。と云ってことさら世間から逃避したり、どこかにこもるといった事でもない。
 『苦を教え、苦を滅する目的と方法を教える』という仏教者として生きてゆく。しかも一ヵ所に定住しないという素晴らしい生き方、これが世評を超える活き方。それはまさに人間として、自己を活かし切ってゆく活き方、釈尊とその弟子達なればこその生々活命!
 修道と結果それぞれ段階的に
 覚りニバーナは仏教上の最終最高目的であるから、そうそう簡単にはゆかない。書道にしても茶道にしても、道と名がつけられる様なものは、どれでも相当な修練がいる。仏教も心身の大転換であるから、確に安易なものではないが、と云って難行苦行といった性質のものではない。なぜならばそれは主として考え方を変え、心の習慣を変える事なのだから。ではそのポイントは何か。
 自分の身体と心について、自己中心の面を自分の本当の面ではないと考え。それを捨てへらしてゆく事。その程度に応じて喜び、満足が得られる。−まことに合理的なものである。
 釈尊の仏教は、その自己学習の程度とその結果をいく通りにも設定してある。いかにも人間に応じた、誰にでも出来る、そして本人次第で程度を上げられるようにプログラムされているのである。
 今日風に云えば、まことに適切なソフト(精神機能)の開発者と云ってよかろう。ところが後期仏教は大変に哲学化してしまい、程度段階法を取り払ってしまった。そして徹底の一段階としてしまった為に、到達かゼロかとなってしまい、途中がないから、オソレをなして寄りつかないという、今日風を作ってしまった。この点大いに仏教指導者側は考えるべきではなかろうか。
 たとえ修道はしないでも、この道を信じ、如来(仏け様)を信じるだけの者でも、ある程度の境地、つまり喜びに入れる。ただしそこは天国となっている。もっと程度の高い結果を望むなら、それだけ熱心さが必要となる。自分に属しない物とは何か、つねに学習を深めてゆかねばより大きな、本物の利益、幸福を得る事は出来ない。しかし道は、明らかに用意されている。あと自分自身の自発性だ!

三宝 第120号 1983年10月8日刊 田辺聖恵