聖と俗の違い

「聖と俗の違い」
聖とは絶対の自己化
この短い原始経典(アーガマ)(三宝法典 第二部 第三四項 一人子 ラッタパーラ)には、どの様にして人が釈尊の弟子になっていったかを明らかにしている。財産もあり若き妻もある青年が、何故にそれらの幸福と満足を振り捨てて弟子になったのか。
 それは人間を含み、さらに人間を超える偉大なる法、縁起の真理 を聞いたからである。そしてその大法を悟り、実行し、正導をして おられる釈尊、偉大なる宗教者を見かつ触れたからである。それは人間としての理想者に直接触れたという大感動によるのである。
 これに較べ、日本の仏教者は多くの場合、両親の非業な死とか、自分の社会的な出世の道がふさがれているとか、僧侶になれば死刑が許されるとか、頭脳がいいから宗教界で出世しようとかで、純粋に真理法そのものを求めて入門した人はむしろ、少なかった様だ。
 それはもともと日本の場合、寺院中心であるために、町なかで直接大衆に法を説く様な体制が無く、従って大衆は寺院という金ピカの権威を後に背負った僧侶しか知らないのである。   
 一切の地位や権力、金力などを背景とせず、しかも無一物、一日に一食するだけの宗教者、真理をそのままに生きる仏教者、それが釈尊というブッダ、如来である。それは抽象化された仏けではなく、人間として可能な理想を生きておられる方である。それは哲学の世界や幻想や願望の世界ではなく、まぎれもない事実の世界。    
 こうした事実に感動出来る精神情況が、当時のインドにはあった。単なる生活上の苦難から逃避するのではなく、真理を体現して生きるという、輝かしい生き方を求める気風があったという事は、なんと素晴らしいことであろうか。さて今日、若い人の中で、ただあくせく働くのでは虚しい、という気風が起きてきている。学校教育の不幸は教師がその事に気づこうとしない、見事な後進性にある。
 さて、単に入門するだけでなく、なぜ出家するのか、ここが日本人には理解し難い所である。それは人間性に反するではないか、という批判心をもって、自分の愛欲を肯定しようとする。この背景には何百年と続いてきた儒教の影響があるのかも知れない。長男あと継ぎというイエ思想だ。インドでは大学教授でありながら、出家したいという願望を持つ人が今日でもあるという。宗教も社会背景が大いに投影するものであると考えねばなるまい。 
 出家−とはどの様な者か。それは激しい欲望の心を転換し、真理のままに生きる喜び(法楽)を持ち、それらを正導するという理想を実践する者である。もしくはその方向に向っている者である。施食によって生活し、何びとからも傭われず、従って身分も生活も保障はされない。ただただ宗教活勤にのみ生きる者である。当然、同信同行、後続者をも作る事になる。これらが日本では困難で、僧侶は時の権力者に大すじでは従属せねばならなかった。
 俗の生活はどの様であつたか
 在家−とはどの様な者か。欲望は少なめにして満足を知り、三宝を信じ、法楽をあこがれつつも、その徹底した境地に進み得ない自分を知り、浄福に生活する。職業をもって働き、宗教者の指導を受け、尊敬と感謝の心をもって宗教者に布施、供養する。宗教活動を支援する事に自分の存在価値を見出す。
 在家信者は正式な修業が出来ないが、熱心な布施をする事が、大きな功徳とされている。またこの経にも見られる様に、施の功徳を積むことで、自分に幸せがめぐってくる事を期待してもよい。
 ところが日本では、この在家信者に出家徹底者と同じ道が指導される様になった。これはいくつかの理由がある。まず第一に原理として原始経典が採用されていなかった、という事。後期経典であるため「次第説」というのが、指導原理として欠落している。第二に考えられるのは、すぐれた仏教徹底者は、その徹底の道をもって伝導しようとするであろう事。第三には信者側に知的水準の高さがあるという事。これらが重なり合って、出家在家の区別があいまいになり、その事が結果的に僧侶の質を低くし、尊信の対象とならず、葬式儀礼に終始する様になったのではなかろうか。
 仏教の原点を明かにする
 仏教をただ単に、覚り又は救われを目的にするもの、と限定するならば、必ずしも出家でなくてもよいかも知れない。かりに在家で絶対の境地が体得できるかどうか、という事はさしおいて。
 しかし宗教者は自ら修道するのみならず、宗教活動として指導をする事と、後継者を養成する事と、ある程度の葬式法要などの儀礼も誰かがしなければならない、と云った事で専門性を要する。
 今日、日本の僧侶は大半が妻帯者で、厳密には出家者ではないが、宗教活動をしているならそれで良しとせねばなるまい。問題はそうした事が時代の流れとして当然とされる様になると、はたして絶対の境地を体現する宗教者が今後、出てくるであろうか、と懸念せねばならない。体得者なき絶対の境地は、まさに口説、観念論にすぎないものとなる。それは思想としては価値があるが、宗教ではなくなる。宗教はその生きている現実の人が、どの様な体得をもって生きるか−という事なのである。
 こうした時代相から、僧侶でない宗教者が、それぞれの熱意をもって宗教活動をする人が多くなってきた。これは宗教活動こそ宗教の本質である事を示す。ここから次の問題が出てくる。半僧半俗と非僧非俗の区別が着きにくくなる、ということだ。そこで仏教の場合には、やはり原点を確かめる事が必要になる。在家主義の仏教などは本来無いのであるから。
 在家であって出家性を求めるのか、僧侶であって在家性を求めるのか、常時自問自答するためには、つねに出家、在家の本質を明らかにしてゆく必要がある。さもなければ仏教は、日本において完全に消滅するより外はないであろう。すでにその危機にあるのだ。

三宝 第122号 1983年12月8日刊 田辺聖恵