「正念」を呼び起す

「正念」を呼び起す
 ビク尼の教団が出来たのは、釈尊による仏教活動が始まってかなり後である。この頃には、あまり謙虚、素直なお弟子ばかりではなかったようである。こうしたことが起きてくるのも、教えがすみずみまではゆき渡りにくいことを示すと云えよう。
 たゞ一信者になる、ということではなく、弟子になるということは、三宝への信仰を持つことは勿論であるが、教えを聞き習い、法に従って修行し、覚りという人間完成へと行きつくことを目的にするということは明らかである。それが『聞・思・修』である。
 素直に聞かねば頭にも心にも、入りようがない。それは、覚りを目ざす目的意識が強く、かつひたすらでなければならない。「正念」とは正しく強く思うことである。それは仏教のならい、覚りとはどういうものであるかーと先に聞き知り、それを了解し、体得しようと強く思い続けることである。そのためにはつねに、三宝への信仰や尊敬の心を現わすようにしないといけない。さもないと、いつの間にか、自分の考えが頭を持ち上げてくる。自分が偉くなってくる。
 今日は、いわゆるお説教を聞きにゆくということが、男性の場合ほとんどない。従って「聞く」という習慣や心構えが身につかなくなっている。そこで心ある人は仏教書を読むという方法をとる。
 この本を読むという習学法は、どうしても、書いてある知識を知るということになる。師から聞くという実感が持ちにくいので、知識が増える喜びは持てるが、信仰という謙虚さを根底にした宗教心というものは育ちにくい。やはりこうした心情は、師や先達によって育てて貰うより外ないのではなかろうか。
 仏教書というものは、大体最高度なことが説明されている。つまり読む側の能力や程度、態度といったものとは無関係になりやすい。本というものは、一種の教科書のようなものであるから、そうあってよいのかも知れない。そこでその本をかみくだいて解説して貰うという先生を通さねばならない。ところがそれが出来ないとなれば、読む人が二役を演じなければならないだろう。
 仏教から思想知識を吸収しようとするのか、仏教によって自己変革をしようとしているのか〜と問う、もう一人の自分が必要だということである。知識を得るという考え方には、なぜ信仰の心が生じないのであろうか。それは知識(今日風に云えば情報か)を吸収するという姿勢は、自己をよいとして肯定した上で、その上に知識をつけ加えて、自己をよりよくしてゆこう、とする考え方である。
 これは人間はもともと善であるという考えを根底にしていると云えよう。一種の無意識的な性善説である。仏教でもずっと後期になると、仏性論などが云われるようになり、性善説のように受取られ易くなるが、そのゆきすぎに対するかのように、罪業深重論が現われてくる。このような、ゆれが人間理解を大いに深めることにはなったが、また一面、一般の人にはあまりにも近づき難いものとなる。
 人間は−惑・業・苦のくりかえし
 釈尊は人間を概観的に、しごく平易に、しかも、現実と本質を同時に説いておられる。こゝに釈尊の本当の素晴らしさがあるのではなかろうか。『悪口を云われても、棒で打たれても、けわしい言葉を吐くな』と云われる。まさに日常的であり、それが出来ればまさに真髄である。釈尊は人間として苦しみを問題になさる。いろいろな苦しみ、数え上げればキリがないほどである。
 その苦しみは何処から出てくるのか。それは苦しみをもたらす様な行い(業)をしたからだという。こゝで多くの人は反発する。
「私は何も悪いことはしていないのに、こんな目に会う」と。釈尊はこゝで、善悪を云って居られるのではない。したらした事の結果が現われる、しなければしないことの結果が現われる〜という結果と原因のすじみち、関係論を云っておられるのである。
 ところが人間は、自己を善と思いたいから、自分のすることは、善、したがって善の結果が出るはずなのに、そうならない(期待通りにならない)ということで腹を立てる。自分の期待や行いが妥当であるかどうかなどと、客観的に判断したりはなかなか出来ない。
 このすじ道論を「あゝそうかなあ」と受容れるためには、素直さ謙虚さ、三宝への信仰心といったものがなければならない。
 ではそのような行いをなぜするのだろうか。それは惑、まどい、愚かさ、無知、人間とは何か、人間の真理とは何か〜それらを知らないことによるとする。『人間を知りなさい。人間が生きている意味を考えなさい』釈尊はその事を伝えるために四十五年間も旅をして歩かれたのである。謙虚さ、信仰心を持ちさえすれば、釈尊の教えはどこからでも、本を通してでも聞えてくる。そして、仏教者としての「正念」をつねに呼び起こさねばならない。
 『平らかなる道に−よく馴らされたる馬−たくみなる御者』
 この平らかな道とは仏教の学習の道を象徴的に云っておられると、受取るべきであろう。覚りを開くためには、特別、大変な努力、難行苦行をせねばならないのだろうと思う方が多い。釈尊の仏教を知らない方の誤解とでも云うべきか。確に欲望を満たすことを主とする世俗の道とは違うが、決してけわしく誰でも出来るものではないというようなのではない。どうしてこのような誤解が生ずるのか。
 仏教とは煩悩を断ち切るものである。煩悩とは欲、これは根強いから、よほど努力、修業をしない限り、おさえつけも、断ち切りも出来ない−という話に原因があるようだ。
 人間は−愚痴・欲・怒りのくりかえし
 先の『惑・業・苦』と同じようなことを少し変えて釈尊は説いて下さる。怒りにふるえる(地獄道〜地獄ではない)のが最大の苦。それはどうして生じるか。貪り、はてしのないような強い欲の心で欲の行いをするからだと。こゝでその欲をたゞ捨てよ−ではない。欲望と考えを捨てよと、この経(鋸の譬)でも説かれる。つまり欲望は考えと喰ついている、その欲のもとである欲の考えが問題なのだと云われる。いわゆる煩悩とは、この三つで代表される。怒り・欲・愚痴だ。
 怒りも欲も感情であるが、愚痴は一種の理性である。人間とは何かをまだハッキリ知らない状態の理性である。この愚痴というものは、教えられ、習ってゆけば、どんどん展開するものである。
 欲が出てくるのは、真理を習っていないからである。人間の真理を習えば、欲の考えでなくなる、つまり欲を少なく、なくす方向に進んでゆく。つまり貪欲が氷解してゆく。だからムリをして欲望をおさえつけたりする方法ではない。愚痴を知恵の方に転換してゆくのだから、難行苦行ではなく−平らかな道なのである。
『よく馴らされた馬』というのは、自分の肉体とみてよかろう。仏教は自己を変革してゆくのではあるが、魂と肉体と別個と考えるのではない。心と身体は一つのごとし、『心身一如』とする。身体は心に従うように、ふつうはなっている。心が知恵になってゆけば身体も知恵になってゆく。現代の生理学を少しでも習うと、肉体は生きてゆく上での知恵そのものと云うべきである。心臓が脈を打つのも、腎臓が血液をこして浄化しているのも、肉体が持つ生きる知恵である。生の知恵の肉体はまさに、よく馴らされた馬。問題は、御者、自分自身が、単に生きるだけでなく、生きている意味や価値を考える知恵になっているかどうかだ。          
 三宝に対する正しい信仰、知恵をもって進むのであれば、ムチや棒−おどかしや罰などはいらないということである。『正念』仏教上の目的意識を時々思い起こさせるだけで充分であるということ。
 本来、仏教の道に入るということは、信仰をもってのこと。何びとからも強制されないということである。つまり自発性の原理で動くということである。今日、日本の寺院中心の信仰があやふやになってきたのは、当然の結果である。徳川時代に庶民は、どのお寺かに属せよ、と強制されたのであるから、信仰による入信という経路をほとんどとっていないのである。強制の信仰などというものは、虚構のことであるから、今日はその清算の時ということであろう。
 こう考えてみると、仏教としては、何もかも、これからスタートつまりまず予備知識、啓蒙運動から始められなければならない、ということになる。そこから生ずる自発のものが信仰となる。強制がとれて、自発の原点にきたということは、実に輝やかしい時代の到来である。これから本当の自発による仏教者がどんどん現われてくる、その環境がすでに調い、いよいよ幕あけと云ってよかろうか!

三宝 第112号 1983年1月8日刊 田辺聖恵

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