法の相続者たるべし

「法の相続者たるべし」
 『恒産なくして恒心なし』というのが儒教の教えである。家庭を持つ者は、生活の安定なくして、安らかな心を持つなどとはとても考えられない。その故に人は収入を求めて、まじめに働らく、その故に社会的に、保険や年金の制度が発達してくる。
 ところが生活がし易いとなると、まじめさが少しずつ失われ、若者の間には、自己本位が目立ってきて、一寸した不満にも耐えられず非行化しやすくなる。これも一つの慢心の現われと云えよう。
 物が豊かで、しかも謙虚な心を持ち続けるということは、日本人には特に出来にくいのではなかろうか。日本の場合、貧しい時に、神ないし仏けに、生活上のお恵みを祈るという信仰習慣があまり無い。元旦に初詣りして百円のおサイ銭をあげて、一年中の何もかもお願いするようなのは、まあ信仰の中に入れられないであろう。
 これは数百年もの間、死後的なものは仏教で、生活上の事は儒教でという二本建て、公的お祭り的なのは神道でと三本建で大体やってきた。死後観も薄いし、お祭り的公性も薄くなったから、生活と仕事を一結ぶ儒教的々ものが残っていると云えよう。
神仏を頼まず、人間の上下関係の人間重視と、農耕民族として努力勤勉性が、立身出世を第一とする人生観を作りあげ、氷年受けついできたから、今日のように経済国(大国かどうか?)になった。
 よく会社の壁面などに『運・鈍・根』と掲げられているのを見る。よく人かも成功を褒められると「イヤー運がよかったのですよ」とケンソンする。腹の中ではオレは根気よくやった−と思っている。つまり神仏のおかげなど入りこむ余地はない。年配の人であれば、「おかげ様で」とは云うが、別に祈ったわけではないから、本心で神仏のおかげなどとは思いもしない。単なるケンソン語を使っているにすぎない。
 公的に神道式地鎮祭が行われるが、いかにも作り上げられた行事という感じで、これを信仰の現われとは誰もとらない。県や市で行なつても今日は何ら問題にしなくなつた。
 生活は儒教、死後は仏教としたのでは、仏教はまことに希薄なものにならざるを得ない。特に明治以降、国家が、いわゆる国家神道なるもので天皇中心主義を強調したから、それが代理宗教となり、つまり信念信条のより所となったから、仏教はますます葬式仏教とならざるを得なかった。天皇制は日本の国家政治の特性であり、大いに価値あるものであるが、宗教の代行をすべきものではないと思われる。そして戦後三十数年、天皇制を思想信条のより所とする人はほとんが明治生まれの少数となり、それ以降の人において、精神のより所とするものが無く穴があいたまゝである。
 今日、禅の流行を見るようになったが、少なくとも社員教育の一端にくりこまれている点などは、仏教としてでなく、生活仕事の心構えを作るものの様に思える。つまりそれは儒教の変形ないしは、精神統一法といったもので仏教とは云い難い。
又、禅を説く方の中で、禅は無思想であるから、何にでも結びつくことが出来る、とまるでサロンパスの効用の様なことを説く方があるが、これは無執着と無思想を混同しておられるのであろう。
  静けさという徹底思想  
 仏教は覚りの宗教である。ブッダとは覚った人であり、覚りへ導く人である。漢字で仏とすると、とかく神仏とならべて云うように不思議な力、救済力を持つ超能力者のように思いやすい。仏教の本すじを説明されたことのない人は、そうした不思議な力を期待し、そういう方だと自分でイメージを作り上げてゆく。そしてその願い通りにならないと、又別の超能力を求めてゆく。敗戦によって神仏を捨てしまった人が大半というのは、この様な受け取り方をしてきたからであろう。
 釈尊とは、インドの北方、シャカ国(族)出身の聖者ということで、人間とは別個の超能力的存在とか、人間自然を造った創造主とか、人間の運命を支配する力とか云ったものではない。そのような期待や考え方では、真の理性と感情の満足は無いぞ−と教え導かれた、人間としてまさに理想の生き方をなさった人間である。人間として生まれてきた甲斐(意味)は何か?それは自然と人間の本質真理を覚ることである。それ以外の意味は、究極的には理性と感情を満足させることが出来ない。 
 法の相続が仏教者のあるべき姿である。法とは縁起法−変化・互恵の真理である。これを理解することで理性を満たし、これを実行することで、感情を満たすのである。                   
 「安心立命」と云われるが、これは仏教の言葉ではない。儒教のものであろう。仏教は安心が目的ではなく、真理の理解を主とし、その真理の実践によって結果的に安心が得られてくるのである。
 『静けさ』とは、心がさわがなくなる−安らかな心になるということである。すべての人に理性は与えられているというか、備っているが、人間は何のために生まれてきたのか、欲望を主体にした生き方にどのような意味があるのか−といった方面に理性を使う方は今日でも決して多くはない。それは何故であろうか。
 ビールの一本も飲めば、もうすっかり満足してしまうのが、感情である。つまり感情は、生理的にも、心理的(心情)にも、ある程度ですぐ満足出来るようになっている。腹一杯食べれば、モウ結構ということになる。私共の胃袋ではせいぜい千円分位で大満足。その代わり、翌朝にはもう何か食べないと満たされない。
 心の満足といっても、実は生理的欲求を起こさせ、生命維持をさせるためにお膳立てされている面が多いから、こうした欲求が満たされると、ごく簡単に心も満足してしまうようになっている。
 逆に考えると、生理的欲求が満たされないと、心の満たされはなかなか出来ない。真理を聞き知って理性が満足することから〜やがてナルホドそうだったか−という心底からこみ上げてくるような心の満足を得る、といった方式をとる人はごくごく少数である。
 仏教が本家本元のインドではやばやと亡びてしまったのは何故か。仏教国と云われる日本においても、真理の理解を優先させる本式が行なわれず、本山権威主義が行なわれているのは何故か。仏教を日本にとり入れ、心情化したから日本式になったIと云っているが、それでは『法の相続』は一体どうなってしまったのか。
 昨日テレビマンガを見て驚いた。日本の少年がインドの山中で修行し変身の術を身につけロボット化する。その時の変身呪文が何と「アノクタラサンミャクサンボダイ」なのである。大人でこの言葉及び意味を知っている人がどれほど居られるであろうか。これは後期仏教経典に多く出てくる言葉で、無上正遍知、最高の覚り、仏けとしての覚り、仏けになれるという話の内容を意味するのである。つまり仏教としては最高の敬意をもって使われねばならない言葉が変身の呪文、マンガの材料になってしまったのである。キリスト教国では考えられない無神経さがまさに横行するのが仏教国日本。
 『静けさ』は真理、真実法を了解納得することによって、誰にでも得られる。理性上の静けさが、学習によって得られる。一タス一ということは学習によって分かり、つまりそれで理性が安定するのである。テレビで人が殺される時、『なぜ殺されるのか、訳を教えてくれ』という場面がある。つまり人は納得して死にたいのである。
 法を知ることは誰でも出来る。学習しさえすればよいのだから。そして真理を習い理性が安定し、静かになった者は、見道の聖者。
 聖者と云われるのは、人間としての生きている意味を見出した人間になったからである。しかし、感情的には、むさぼり、怒り、ねたみ、慢心と数え上げればきりが無いような心、感情が渦を巻く。 
 つまり感情はなかなか静まらないのである。それはヒトというものが、生命維持機構として、欲求感情を主とし、認知能力が後から発達し、この理性においてはまだ発達の途中でしかないという事情によるのであろう。理性の発達とはI人間存在の意味を明確に知リ、過度な欲望感情を調整し。真理に合致した生き方行動をすることによって、理性と感情とが価値的に統合されるということ。そのようになることが『静けさに住む』ということである。
 この静けさに住むのは難しいことではあるが、まずその実現のために、学習しさえすれば誰でもいつかは行きつけるという、難行でも易行でもない、中道が釈尊によって用意されていることは何と有難いことであろうか。まずこの中道を知りかつ信じる所から、生き生きとした仏教が始まるであろう。法の相続への道が。

三宝 第111号1982年12月8日刊 田辺聖恵

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