死から生、生から死

「死から生、生から死」

  死 と 生
やるだけのことはやった、として
喜びに満ちて、この世を去る人がいる
その人にとって、それは一つの宗教なのだ
  死が苦しみなのではない
  生きていることの、意味がつかめない
  己を認めることが出来ないのが、苦しみなのだ
はてしない。欲望生活の連続から
己の意味を考える人間になったこと、
その明快への第一歩を、祝うべきなのだ

  生きやすさの時代
 着物を着てカンカン帽、下駄の音を立てながらせかせか歩く大正時代のフィルムを見るにつけ、今日は生きやすくなったと思う。電話も自動車もゼイタクではなくなって必需品と云うより、当り前の物とまでなっている。かって百姓一揆があってその中心に僧侶が居たなどということは、どうも想像しにくい程、今日は豊かになった。
 本人が望みもしないのに高校に行かされて、勉強がついてゆけないからと非行化するのが、これも又当り前という時代になっている。
経済的に豊かになって、ただ喰べて生きてゆくだけの生活に真剣さを持て−といっても、もうそれは出来ない。かって、明治は高揚期であった。絹や茶位しか輸出が出来ないで、どうして軍備まで出来たのか不思議な位である。それは日本全体が、西欧に追いつけというはっきりとした国家目標を持ち、それが個人を律するというか。生きる目標ともなっていたからであろう。
 日本人は集団目標というか、自己以上のところから明確な指示を受けないと、自分で目標を選択することが出来ないという歴史的体質をもっている、それが和を尊ぶということである。
 そこで集団に属し、一度び目標を与えられると「生命をかける」というコトバを文字通り実行するという勤勉直行をする。会社と社会正義との板ばさみになって自殺した人が何人いるか数え切れない。
 イギリスでは停年前に仕事を止めて家庭生活を楽しむという人が多いのに、日本では停年延長を皆が望むし、仕事を離れれば大部分の人がどう生活していいか迷ってしまうという。
 中年以上の働らき蜂ぶりと、若者のどんな仕事につきたいか、まるで志望を持たない無目的ウサギぶりと、この二つを並べて考えると、今の社会、過去と未来がそれだけでもかなりはっきり想像されてくる。
 何をしたいか、ということはどういう意味があるのか、ということと大体同義語と考えてよいのではなかろうか。何をしたいか、ということでは。単なる快楽的欲望から発しているのは、問題外である。せっかく生まれてきたのだから、「二度とない人生だから」ということを下敷きにして考えるならば、その自分のしたいことが何らかの意味のあることを、と願うようになるのは、人間としての自然の発想ではなかろうか。
 八十年九十年と何かをやりぬいてきた人達を、今日テレビなどでしばしば見ることが出来る。こうにいう人達の顔の輝やきを見るにつけ。生き方の大切さをつくづく考えさせられる。勿論そうした人達はいわば一芸に達し。仕事に徹してきた人達であるから、私共いわゆる凡人が同じようになりたいというわけにはゆかない。では凡人の道はないのだろうか。

  凡人の道
 非凡なる人とは、自から道を切り開いてゆく人と云ってよかろう。従ってその人は、自ら学び、自ら工夫してゆく人である。こう考えると、その反対が凡者の道ということになる。生活してゆく程度の仕事は持ち、やってゆける。しかし、これより外に自分にとって価値ある仕事はないかというと、それ程打ちこめる仕事とは思えない。ましてや、仕事と別に人生があるという意味合いもよくのみこめない。こういう人達を凡者と云ってよいのではなかろうか。日本人の大部分が中流意識を持つというのは、実は凡者のしるしである。そしてこの中流意識階級の中から無目的若者が当然のごとく現われてくる。それはどうしたわけであろうか。
 親は、勤勉、忠誠心→苦しみ→喜び→経済的有効性を知っている。しかし人生とは何かという意識をあまり持っていない。
 一方、その子は、中学時代の第二反抗期を味わうこともなく、勉強を強いられ、高校時代の青春が性的関心に直結し、それらを背景として人生を考えようとする最も大事な時期を、薄っぺらなものにしてしまう。しかし、本能的に人生指向が強いから、親、学校、社会への反撥という形をとってくる。この貴重な人生指向を、非行暴行という形で受けとることから、親、社会の側の試行錯誤が始まる。
 つまり、非行は困ったものとして考えるが、その原点である「行」の方は考えてやろうとはしない。人生などと云っていたら、受験はダメだぞ、と人生指向をつぶすことで、親社会が君臨しているのだから、非行はその方に原因があるのである。
 では、非行の原点、行とは何か。人間として人間らしく生きるというか、人間としての価値意識を学びつつ、生きるということである。今日の日本の社会では、ではどうしてそれが出来なくなってしまったのであろうか。
 それは宗教を明確なものとして伝承しようとしない、自然主義的傾向が、日本の体質にあるからではなかろうか。かっての学校での道徳教育は忠君愛国、忠孝一致であった。この絶対と教えこまれた道徳が敗戦によって完全に投げ捨てられたのである。絶対観を持たない道徳の限界がそこにある。
 天皇絶対といった教えがくつがえされても、日本人は大した精神的混乱は見せなかった。それは気づかぬまでも、自然の流れというものを意識の根底に持っていたからではなかろうか。
 逆に考えると、この無意識的な自然指向の心情が、絶対観を持つ宗教を育てなかったのではなかろうか。どのような宗教を持ち、あるいは道徳律を持ち、あるいは風狂に近い自然観を持って生きようが、それはその人の取捨選択であり、他が口をはさむところではない。だが問題はこれからである。今日のように物質文明化し。いわぱ都会化してしまって、自然指向の精神性を育てそこなっている若者に、さあお好きなように生きなさい、と云ってよいものであろうか。取捨選択とは、本人に素質があり、考え方、生き方のお手本がいくつかあるという環境において成立することである。今日、宗教、道徳、自然指向、この三つが少なくとも若者の環境の中に全欠している。ということに気づけば、非行対策などの後手後手で、そのうちに収まるなどと考えて居られるはずがない。
     本物志向
 本物志向 これは本質なのか
 おのずから身につくものなのか
 それとも 育てられてゆくものか
   まあこの位で といってるうちに
   一年一年が枯れ葉のように
   風に飛ばされて 消えてゆく
自分が 本物の自分になれないとしたら
この自分は 一体 誰なのだろうか
本物をめざさねば あまりにも勿体ない

人間の本質と理想
 東井義雄先生は浄土真宗を味到した方である。人間の生きている意味について「ほんとうの私にめぐりあうために」と明快に答えられる。己の罪深さ、縁次第では、どのような悪もしかねない己、又それだからこそ。大いなるものにつながらせて頂く喜び。
 まさに私共は、凡なるがゆえについ悪とも知らず、悪におちこみ、深い反省もせぬ中に、救われを教え聞かされてゆく。またさほどの悪にも落ちこまないがゆえに、かえって自己悪の本質を気づくこともない、というのが、今日的状況ということになろうか。
「人間はいかにあるか」「人間はいかにあるべきか」この明快なコトバとして、お教え頂いたのは、私の正師とするところの水野弘元先生である。仏教の解説書はあまたある。しかし全仏教を網羅して、たった二句にまとめて頂いたこのコトバに接して、それまでの私のささやかではあるが。仏教研修の結論を得た。重箱のすみを突っつくような経典勉強は不要になった。読む事、考える事、行うこと、そのすべてが仏教に関するものであろうが、そうでないものであろうか、この二点に集約されてくるようになったのである。
又、逆に社会を考えれば、すべての問題ごとが、この二点において考えられていないことを原因としているということも明快に分るのである。
人間とは何か−人間の本質を学び、人間としての理想を行うこと。
この二点を最も端的に正導してくれるものが釈尊の仏教である。この二点から外れるなら、少なくとも釈尊の仏教ではない。
 人間の本質−時に悪とも現われ、善とも現われる無明である。
 人間の理想−人間の本質を深く知ることによって自らを明に転じその覚りに応じた生き方をする。
 勿論これは結論であるから。誰しもがこの境地に徹底するということは出来ない。そこに求道者と信者との開きは、当然としてある。しかし、いわば行く先は一つということであるから、仏教者はすべてこの一本の大道を歩くということになろう。
このような生き方に人間としての生きる価値を見出す、それにいくらかでも接近してゆこうというのであれば、その人はその人なりの本物の人生を生きることになる。この本物志向の過程において、己の与えられた素質、才能、環境、さらに自分の希望を加えて仕事が選ばれてゆくならば、それに越したことはない。しかしそれが出来るのはごく少数の人であろうから、多くの人は、今ついている仕事から逆算して、己の才能と結びつけたり、転職を計ったりすべきであろう。
かっては、仕事、職分を本分と云って、これが社会規範となっていた。しかし、それはその当時の社会の要請であったのであって、今日は仕事も生き方も己が選択するという自由を一応根底にしている。またそのような自由の社会を作る努力が必要である。このように自由であるということは、又自ら生き方も学び、知って選択せねばならないのである。宗教者はそのために啓蒙活動をせねばならぬし、学校教育も、生き方として宗教を取りあげねばならない時に来ている。非行の火の手が上っているのは、実は正行への浄火なのである。
死を考えるためには、充分な生を考えねばならないし、生を考えるためには、死そのものが、充分に考えられねばならない。ここに宗教としての、他に見られない特徴がある。
三宝 第100号 1982年1月1日刊  田辺聖恵

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