仏教の真ずい

仏教の真ずい
当り前の尊さ        
 仏教の真髄とは何か−目的と手段、その違いと関系、その適用の時期が明確であること。
 人間のすることは、すべて目的と手段が含まれているのだから、それは当り前ではないかーと思う。確に当り前のことである。ただ一般には、この当り前のことが、後先反対になったり、二つが混同されたり、一方だけに重点が置かれたりで、目的が目的の要をなさず、手段が手段としての働らきや限界をはっきり出来なくなることが多いのである。
 たとえば、今よくある話であるが、親は子供の幸福を願って『よい学校に行き、一流の所に就職しなさい』と云う。子供の幸福=日的、有名校入学=手段。ここまでは分かりやすい。有名会社に就職することは、手段なのか、目的なのか。はっきりしているだろうか。かりに就職を目的とする。希望した職種につけない。上役と合わない。転勤がある。配置転換等々ともなれば、本人の努力向上を条件(手段)としない限り、幸福(満足な状態)が得られるとは限らない。会社としては、そうした本人の仕事、努力を目的とするのであって、幸福を与えるのが会社の目的ではない。つまり、両者には初めから喰い違いがあるのである。この喰い違いを少なくするための努力、会社家族主義がいわゆる日本式経営と云われるものである。
 このたとえのように目的と手段は複雑にからみあっているので、よくよく考えてゆかないと、この二つは分かりきったことのようで、実は分かりにくいものなのである。この分かりきったことと思えることを、本当に分かり切ったことに、事実化することが大切。そしてそのことを教えて頂けるのが、この三宝聖典 第一部 第三十八項 筏のたとえである。
 釈尊はまず、何のためにお話をされるのか。偉く見せるためにか−もしそうなら金ピカの衣を着たりする方がよい。信者や弟子をふやし、教団を大きくするためにか−もしそうなら、皆が喜び求めるような迎合的な話の方がよいかも知れない。
 お話の初めに、まずその話の目的を明らかにされる。「解脱を得さしめ、執着をはなれさせるため」であると。以下のお話が当然、手段となる。
 向う岸へ渡る−目的  いかだ−手段
 解脱すること−目的  善き法−手段
 目的を達成したならば、その手段にこだわってはならない、ということは、その手段を捨てるということであるが、他の人が同じ目的をもった時に使えるように、その手段を残しておけということでもある。それが筏を岸に引上げておくということだ。さらにこれをもう一歩つっこんで積極的に解釈するならば、目的を達成したならば、次の目的が立てられるはずであるから、それにふさわしい次の手段が用意されねばならないと考えるべきであろうということが含みにあるとすること。一年生の教科書がすんだら、二年生の教科書が必要になってくるということと同じ。ところが、宗教ともなると自分が歩んできた道が一番正しく善いと考えるから、これを捨てるということなど、とんでもないということになる。それはなぜか。目的に到達していないから、到達した後のことなど、とても想像もつかない。だからこそ、自ら到達された釈尊が、自らの体験と思索の結果を説明、正導されたのであろう。
 未到達の私共は、そうであろうと謹しんでこれを拝受する以外はない。このように目的と手段をつねに明らかにし、その関わりと。使い方と、終了の仕方を実習するならば、この解脱といった大目的に対した場合の対し方も身につくことであろう。
 仏教の目的
 仏教を開始された釈尊は、つねに仏教の目的を明らかにする。そしてその目的達成法を教えられる。苦および苦の滅を教えるということは、うんと重点としてしぼった説明をされたということである。しかし、ここのところは、その説明よりも、如来そのものに対する評判について、如来である釈尊がどう対応されるかということを主に述べてある。悪評を受けても気にするというわけではないし、好評だからといってとび上って喜ぶというわけでもないと。実に淡々としておられる。ほめたたえ、尊敬に対して、よく知られたがゆえにそうされるのだと。これは普通の人が云えば、大変ないやみのようにもとれるのであるが、釈尊は事実を事実として云っておられると考えねばならない。正しい事、善いこと、価値あることを云い。かつ導いて、その結果、相手が目的を達したならば、ほめたたえられ、尊敬を受けるのは、人間界においては当然の事であるから、当然とされたのであろう。別にだから偉いだろうと威張ったりするのではない。ありのままに事に処しておられるのが如来(釈尊、ブッダ)ということ。事実を事実として認め、それは誰においても同じであるとされるのである。ここにも『当り前』が働らき現われる。
 ここで注意することは、釈尊が個人として発言される時は『われ』という表現である。しかし真理を正しく悟リ、その悟りの内容を他に正善に正導するという役目上で発言される時は、如来は・・・と第三人称で発言されている。つまり仏教の法を個人として学習する時は、その人は個人であるが、多くの人に法を正導、伝達、教育するという時には公けの性質を持ち、個人ではなくなるということである。如来とは、釈尊自身がおのれの個人性をぬいて、公けの役目として活動される場合の呼び方である。
 私共から見るおシャカさまとは、この個人性と公人性の二つをもった方なのである。この公人性に対しては大いなる尊敬を払わねばならないのは勿論であるが、時には背中の痛み(痛風)などをじっとたえられるお姿に対しては限りない親愛の情がわいてくるものである。
 日本では、仏けさまというと、金ピカの金仏、絶対者としての仏けさましか知られていないから、仏教を全面的に理解することが出来にくいということがあるようだ。そこで仏けさまは祭や上げてしまって、宗祖としての親らんさん、日蓮さんなどに人間味を強く感じるようである。それでもいいようなものだが、それだけでは、仏けさまの内容がいわば半分しか理解されないということになろう。そこで、おシャカ様は応身仏、身を応じられた仏けさま、一段低い仏けさまといった説明までなされてしまうのである。
 仏けさまはこの私人性と公人性をもって居られるということがはっきりすることで、仏教者としては「何を、いかにめざすべきか」という点も明らかになってくるのではなかろうか。
 仏けさまのようになりたいと思うのか、とてもなれはしないはずだから、ただ救われたいとだけ願うのか、己の目的像というものが違ってくる。そこで仏けさまとはどういうものか、ということを明らかになるまで大いに学習しなければならない。
 さて、この筏のたとえによれば、よき法とは何か。この目的に到達するための手段は、大きく分けて二つある。随法行と隨信行。法に随う行とは、法を理解し、法と一体になるための行をするもの。信に随う行とは、釈尊が法を悟られたという事実を信じ、自分も悟れるはずと信ずるという行、又は如来が救い導いて下さるということを信ずるもの。いずれにしても、法を目指し、法を体得するということでは同じになる。そこで自分はどちらが適するかと、自分で判断し選ばなくてはならない。手段は一つだけではないいからである。日本では一つの手段というか、一つの過程のみで成り立っているのが宗派であるから、一つの宗派に入れば選ぶなどということは考えられない。そのために転宗するか、宗教そのものを止め捨てるか、あるいは遠のいて、ただ単に家としての習慣として、形だけ受けついでゆくといった程度のものにしてしまっている。この習慣としてやっているのは、信仰でも宗教でもない。従って、どのようになりたいという目的意識もどのような手段を使うということもない。こうしたことが、お仏壇と神棚を両方拝み、やたらとお守りやお札を受けてきたり、とまさに雑信という、実は信とも云えない精神状況を作り出している。一体、何処に誰に本当の原因があるのであろうか。
 よき法すら捨てよと云われる釈尊の、この適確な法への対応をこの際、大いに学ばねばならないであろう。そのためには、法という専門語そのものがよく分らねばならない。法にはいろいろの意味があるが、目的としての法と、その目的に到達するための手段としての法がある。
 目的としての法−真理(悟られるべき内容)
 手段としての法−八聖道(日本では各宗異なる)
 目的と手段をつねに明らかにする努力が最優先せねばならない。

三宝 第102号 1982年3月1日 田辺聖恵

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