法によって平常心

「法によって平常心」
 『平常心これ仏法』と云われる位に、仏教ではそれを大切にする。どのような異常事態になっても、平常の心で対所せよ−ということである。貧すれば鈍する−とも云われるが、衣食足って礼節を知る−とも云われる。しかしこれも大分注訳というか、補いがいるようである。衣食が足りすぎて、とんでもないゼイタクをしたり、日本中を支配して天下取りになりたがってみたり。衣食が足りるにつれて、進歩向上、これが精神面にひろげられ、修養や宗教へと目指すところに礼節が現われる−とでもすべきであろうか。
 『人はパンのみにて生きる者にあらず』とも聞く。又、宗教信条の対立反目は、経済的対立や、階級的対立よりもっと根深いものであることも、今日の世界的視野でよく知らされる所である。
仏教としても、執着をもたず、淡々とした境地になることを、平常心のように錯覚を与えてきてはいなかったか、大反省を要する。
この「鋸の譬」の経典のように、どんなに不快な目に会うとも、どのような苦しい目に会おうとも、音を上げるな、となるとこれはよほど、かねてに心の修練をしておかねばならない。たゞ音を上げないだけではなく、親切謙そんでなければならないのである。
 心動ようせず、やさしき言葉、同情、あわれみ、慈しみで怒らず
これらが平常心の内容だとなると、これはもう凡人ではどうにもならない高度な境地。しかし、仏教にあこがれ、仏教を習う以上は、それらの百分の一、千分の一でも己の目標とせねばならない。
 己の幸せだけを願うように、今の子供たちは育てられている。およそ宗教的心情とはほど遠い心を、親の姿、生き方を通して、植えつけられている。それどころか、個性尊重といった、まことにヘンテコリンなおだて上げによって、ごう慢心を育てていることに、ほとんどの人が気づかない。親切謙そんなどひとかけらもない、といった、なんともうるおいの無い世の中を、日本人はせっせと作っているのである。
 老人が福祉を権利のように主張する。永年生きてきた、その末路を、主張で飾らねばならないとしたら、それはどういう生き方であったのだろうか。戦前に育ったはずの老人なのに、その大部分が、宗教をもっていない。宗教を分かりやすく云うと、自分を超えた大いなるものから与えられ、恵まれた心を、有難く頂くと同時に、他の人々へおすそ分けしてゆくこと−だと云ってよかろう。
 「施」「施の一道」「施心あれば道通ず」
 昭和二十三年に仏教の世界へ、いわば苦しまぎれに入りこんだ私は、十年たつ中に、仏教とは「導」であるとつかんだ。そしてさらに十年をへてみると、仏教とは「施」であるとつかみ直すようになった。導かれ導くことが実は施であったと気付かされたのである。
 釈尊およびその直弟子たちは出家である。三衣一鉢の外には何一つ蓄えていない。いわば無一物である。その中から何を施されたのであろうか。無一物だからこそ施こせるものは何か。
 「法と慈心の施こし」−大智大慈悲の施
 奇妙なことではあるが本尊仏け様は、人間に幸不幸をふり当て、人間の運命を支配する、偉大な力をもつ方ーといった発想が今でも横行している。釈尊の正統がタテにつながらないことはなはだしい。そうした発想は超能力をもった神様というものである。自分の欲望を中心にして、それを祈り、満たして下さる、これは信仰ではあるが、ホンモノ仏教ではない。その欲望の心を分析し、智光で照らし出し、さあどうするか−という所に仏教がある。
 釈尊およびその直弟子たちは、すでに出家をしているのである。物質的肉体的欲望からすでに脱出して、それでもなお得られない、人間の本質理解を求めているのである。それは人間と自然を一丸とした事実の世界に一貫している理、すじみちの追求なのである。
 従って仏教者として、お願い、ご祈念すべきことは−真理正法を導いて頂くことゝ、そこから出てくる積極的平常心を導いて頂くことである。縁起、空、本願といった正法をぬきにして、仏教に何かを求めても、せいぜい気安めにしかならない。
 ビクとは出家の弟子であるから、妻子を養いつゝのお坊さんと同一視することは出来ない。(親らんさんは自らを非僧非俗と自称)このビクなるが故に、尼さんと仲良くすることはふさわしくないとこゝで釈尊は、厳しい教え、正導をなされている。しかし単なる禁止ではない。法を尊ぶ所に、柔和な心が生まれることを、まことに親切に慈愛をもって説いておられる。真理法に心が向いていない時、心にすき間が出来るということを証明される様なものであろう。
    仏教はコトバを重視する
 釈尊仏教は『八聖道』を正統とする。その中に正語の一項がある。
正語―四つの悪語を使わないという基本である。『うそ・悪口・飾り言葉・仲たがいさせる言葉』これを禁じ、その反対の言葉を使う。
 『正しい事を云う・褒める(愛語)・明瞭に云う・仲良くなる言葉』―これらが正語。かりに仏教が分っても分らなくても、この正語法をわきまえ、活用するならば、これだけでも随分と人間関係はよくなり、お互いに暮らし易くなることは間違いない。
 さらにこの経典によれば、五対の言葉が教えられている。
 一、時にかなう言葉―人間は生活してゆく上で、いろんな局面を持つ。たとえば食事の最中に、法の質問をするのもふさわしくない。ジェーナ(瞑想)に入っている時、話しかけるのも失礼である。時と場所、相手、内容が配慮されねばならない。
 二、事実に合う言葉―仏教は事実に含まれる真理の追求であるから、虚構や仮定の上での議論をしたりはしない。
 三、利益になる言葉―利益とは幸福になることであるが、勿論それは物質欲などの満足を云うのではない。宗教が体得されてくる上での充足、浄福である。従って何が価値ある利益幸福かという基準が分っていなければならない。
 四、柔らかな言葉―これは宗教心を求める上に生じてくる柔軟な心から出てくる言葉使い。思いやりの言葉と云えよう。
 五、慈しみのある言葉―慈悲心とは愛他心とも云える。利害損得、好き嫌い、憎みねたみなどを離れた、純粋な友愛心から出てくる言葉。これら五対の中、二、と三、事実に合うということゝ、利益になるという言葉、この二つが特に重要とされる。法に合致することゝ覚りの幸福に役立つという二点である。
 相手に対しては、これらのより善い言葉を使うのではあるが、さて自分が、それらの中、悪い言葉をあびせられてはどうするか。
 相手が間違っていれば、腹を立てるのが常識ということであろう。しかし仏教は法の道であるから常識を超えた世界になる。例え相手が間違っていても、慈しみの心を持たねばならない。この点は一寸納得しにくい所であろう。これを平たく説けば、このように云われなければ、私は目覚めにくい人間だから、こう云われるのであろう。又はこのように云われる程度の人間でしかないからだ。さらにはこのように云われる事で、過去に自分が云ったことのつぐないをしているのだ等々。そうした思い替えも時には必要である。   
 仏教は結局、人間関係論、関わり論である
 人間を含めた自然のあり方、本質を究明してゆくのが仏教であるが、それも人間が行うものであって、人間から逃避するものではない。山寺にこもって政治社会や一般社会から断絶して一生をひっそり送るなどというのは、およそ本物の仏教とは云えない。それらは日本のかって権力社会が作り出したニセ仏教である。
 釈尊は沢山の弟子や信者を、四十五年間も正導し続けられたのである。その正導はすべて言葉で解説された。そして修行実践、体得は体験の世界であるから、言葉を超えるものとされたのは当然である。このように仏教の直接指導は、言葉によったから、その言葉の使い方、言葉の種類などに重視をされたのはもっともな事である。
 『縁起説』は関わり論である。そして最終的には人間同士の関わりになってくる。関わりが真理だからである。であればよりよき関わりを持つ以外に、価値を見出すことは出来ない。仏教を実践するとはよりよき関わりを実現すること―しかもそれが慈心・平常心によって貫かれるということである。言葉の重視が必然ともなる。

三宝 第113号 1983年2月8日刊 田辺聖恵