田辺聖恵 の検索結果:
…の是非の責任の大半は田辺聖恵にある。一読されてこの内容が日本化された諸宗派とあまりにも違うので、驚かれることが多いであろう。従って、この三宝聖典の将来における普及については、非常に望み薄いがこれを受け入れる方、また参考になさる方はおおいに得る所があるであろう。 .瀬鵐沺平人?法欹欧魎泙瓩唇貔擇梁減澆相互に影響しあって、変化しながら現象してゆくすじみち 道 徳(善) -真理を土台にした幸福な生き方 宗 教(聖) -人間としての価値ある最高の生き方 この価値ある真理を実現して、全…
… 小部経典一 法句経 一二 自己品 41頁) 真の自己愛 もしおのれをいとしと知らば、おのれをよく守れ。賢き者は夜の三分の一は目覚めているべし。(田辺聖恵訳) 「目覚め」という精神生活に一日一時でも心を向けることがなければ、己の生命を浪費し、後悔がおしよせる。在家の浄信者は昼は働く。夜は休息というなら、一体いつ目覚める時をもつのか。月の中目覚めの時をもつのは一回か二回か三回か。真の自己中心こそ習わねばならぬ。ムダを恐れ生命をケチれ!。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…。 そのことを声を大にして啓蒙運動を更に増大せねばならない。その真理から導き出される生活方法は少欲知足である。便利生活に走り易いのを、一日一食の質素な歩みをされた釈尊を恋慕することによって、少しでもあやかってゆこうとするところに仏教者の生活がある。世界がもし少欲知足を少しでも取り入れたなら、たちまち平和が本物になるのであるが、この原理はまさに足許からである。入滅の日に考えねばならぬことは、それこそ山ほどあると云わねばならない。 (浄福 第77号 1980年2月1日) 田辺聖恵
…み 恥ずる心にてつゝしむもの、この世に誰かあらん。かれは謗りを気にかけざること、良き馬がむちを気にかけざるがごとし。(田辺聖恵訳) ◎日本は恥じの文化の国と云われていた。今日の日本がすっかり恥を感じなくなつたのは、欲望が激しくなったからか。それとも物が豊かになりすぎたからか。宗教、信仰が身につくとは謙處さがにじみ出てくること。己より偉大なもの、真に尊敬出来るものを持つ時、その人は浄信者となる。一切を手放す者こそまことのつつしみを知る。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…るなり。汝に忿怒あることなし。(南伝大蔵経第23巻小部経典一 法句経 一〇 刀杖品 37頁) 破れたるドラ鍾のごとく、おんみもし声を立てざれば、ニバーナを得たるなり。おんみに怒りなし。(田辺聖恵訳) ◎思いは必らず言葉となる。言葉のやりとりは心をとがらす。言葉について配慮せぬ人は心の調整もなしがたい。ニバーナとは怒りの心、むさぼりの心、愚ちの心(三毒煩悩)の燃える火が吹き消えた状態のこと。言葉の使い方を通してその心が分るものである。(田辺聖恵) ブログランキング まじめな話題
…のである。それが真理である。良い悪いはない。これが入滅である。肉身なきブッダは存在しない。大乗仏教で考えられたブッダは実は、法身、法、真理なのである。 真のブッダは肉身を持ち、その理法に従い合致し、幸、不幸の情感を超越することによって、人間としての可能性の極点に立つことである。それだから理想者である。その極点に立つがゆえに、人を導くことが出来るし、又、そうする以外にないがゆえに救済者でもある。この理想者の救済者がブッダである。 (浄福 第77号 1980年2月1日) 田辺聖恵
…「真の充実」 集めたくわえることなく、飲食をよく知り、空、無相、無願の解脱をその境界とする者、かれらの跡は、あたかも空ゆく鳥の跡が知らざるがごとく、跡づけることなし。 ◎財物と喰べ方、これにどう対するか、それから宗教生活か始まる。この訓練から、一切は変化するという知的訓練に入る。空、無相とは、永久不変の本体などはないということ。従って永生を願うことが不要となる。その時人は、一大生命の中にとけこみ、自他共に充実となる。空とは充実の極。(田辺聖恵) ブログランキング まじめな話題
…教は理想を生きることであるから、ルールをぬきにするわけにはゆかない。そこで最低五つの戒しめが定められていた。殺生・盗み・みだら・うそ・飲酒をしないという事だ。さて、どの様に優れた、あるいは自分に向くような法説であろうとも、真理法と規律法に照らし合わせて、それに反するものであれば釈尊の仏教ではないと、その判断基準を明らかにされた。 晩年に近い釈尊は、誤伝異説に対してご自分が立会えなくなる事を案じられての事であろう。何という慈悲、ご親切であろうか。 (三宝 第167号) 田辺聖恵
90 有意の路を経て憂患を離れ、一切に於て解脱し、一切の繋縛を断ちたる人には苦悩なし。((南伝大蔵経第23巻小部経典一 法句経 七 阿羅漢品 30頁) 「旅」 旅を終え悲しみをはなれ、すべてに自由となり、一切の束縛をときたる人に悩みなし。 (田辺聖恵訳) ◎己は喜びの旅をしているのか、悲しみの旅をしているのか、まず自分で考えねばならぬ。真の自由とは、平安である。その平安を得ているかとの反省が、そしてそれのみが、世界平和の第一歩。田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…覚者(一切を正しく解られた方)という三つの肩書きで呼称される。いずれも理想を実現した人間であり、食事もなさる方である。肉体のない抽象哲学存在でも神秘霊の存在でもない。覚るとはそのような生きた理想状態になる事で、死後の安楽をむさぼるといった内容ではない。つまり生き方の問題がどうして死後の話になってしまうのか。この転じてという所をよほどギンミしないと、仏教そのものも分からないし、お経を上げてもらえば死後安楽などというマユツバ話には乗れなくなるはず。 (三宝 第167号) 田辺聖恵
…南伝大蔵経第23巻小部経典一 法句経 四 華品 24頁) 「ちりの中に」 大道に捨てられたるちりの山にも、清浄の香りある、こころよき蓮華が生ず。 (田辺聖恵訳) ◎物質の喜びによいしれ、身を飾りたてゝいては、人格の香りは出てこない。床しい信仰の心は、急に身につくものではない。しかし真実の近くにあればうつり香してくるものである。貧の中にこそ真実の宗教心は芽生える。自ら進んで貧の道に古人達は進んでいった。善と幸福をはるかに通りこした人々よ。田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…縁起説のもう一つ深い価値認識が出来るようになる。こうして、次第に、自己の欲望のためには願わず、なさずというようになり、他の人々にこうした『事実存在から〜価値存在へ』という大転換を正導するという。まことの価値ある生き方をするようになる。つまり全きあり方を、この現実の上に実現してゆくのである。これが『全現』である。自己を超えた全部、自已という、個の上に事実表現となってくる−これが仏教なのである。 (三宝 第106号 1982年7月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…ある。原因(これ)を無くせば結果(かれ)も無くなる。無智無明の衝動エネルギーを無くせば、その結果として存在が無くなる。ではその無智を無くするということはどういうことか。人生目的など何ら考えることがなかった状態から、そのような存在の仕方をしていたのだなあと認識することである。つまり知らない、考えない状態から〜よく知りよく考える状態に自己を転換させることである。ではなぜそのようなことが必要なのか?(三宝 第106号 1982年7月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
『旅の仏教者 釈尊』 正導の旅を続けられる仏教者 釈尊 時には空き小屋に 時には野宿をされて 人々に真実の生き方を説いてゆかれた 一つ所に七日以上 留どまってはならない これは出家仏教者サンガの規律であるが 殊更の絆をさける修道の精神と言うべきか 自ら村に行って托鉢をされた 釈尊 干ばつの時には一日一食すら得がたい その様な旅を四十五年も続けてゆかれた 田辺聖恵
…己とは過去の生命の歴史にしっかり結びついている者ということであるから、事実認識が必要条件となる。 『事実』 己は己の主なり 他に依り所あらんや これほど厳しい言葉があろうか 偉大なる力を人は求めるというのに 一切は縁起し変転して止まない その事実をしっかりつかまぬことには すべての考え生き方は砂上楼閣 この事実にたえられないものは 何かに頼り自己の破綻を防ぐ それはそれなりに有難くもある道だ (三宝 第106号 1982年7月1日刊) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…単なる心構えでなく、まさにより善き生活法である。死んでから先どうのといった事ではない。また信者には仏法を奉じ、ビクビク尼を敬い、清き信仰を持つ者を守れと教えてある。 宗教とは教えによる自己革新ではあるが、それはその様に生活せよという事で、タテ前と本音を分離させてそれが生活の知恵などと平気でいられる様なものでない事をよくよく考えたいものである。 (三宝 第166号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…、お陰げはあっても自己変革が生じる事は期待される事がないだろう。何故ならば、お陰というか御利益を求める心情は、自分をそのまま良しとし、別に自己変革などは願わないものである。 初信的にはそれでもよいが、人間としての苦悩の根本を引きづってゆく事には変わりがないから、いつかは改めて大きな障壁に突き当ってしまう。そこからでも良いようなものではあるが。 (三宝 第166号) 田辺聖恵 http://blog.with2.net /link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…き事がなさるべし。(田辺聖恵訳) ◎幸福を求めない人はいない。しかし幸せが善によってしか得られないことを知る人は少い。そして偽善者と云われることを恐れて善を行わず、やがて善を軽視する人が多くなるのはどういうわけであろうか。釈尊はまず、善因善果悪囚悪果(業報論)と明確に説かれた。この素直な理と事実が分らないなら、とても真理などは分らないとされた。何が善であるか、それは伺が真正であるかよりも、まず明確にされねばならない。これこそ幸福論のそして教育の第一歩なのだ。 田辺聖恵 ブログ…
『釈尊を伝える』 私に何がしかの取り柄があるとすれば 釈尊の思想行動を他に伝えることだ 二千五百年前の一宗教者の生き方をだ 人間としての最高可能な知恵に達し 人間としての最大広深な友愛心に溢れ 人間としての生き方を全うされた釈尊 人それぞれがそれぞれの了解で生きる 自らの信仰に喜びをもって生きる 一律一辺倒でない道を開かれた釈尊 田辺聖恵
…品 22頁) 「び妙な欲望」 みにくことかたく、び妙ににして、欲のまゝにおちこむこの心を、賢き者は守るべし。守られたる心は幸せをもたらすなり。(田辺聖恵訳) ◎衝動的に行動することが自由ではない。他から律せられることを人は嫌う。では自らよく律することが出来るか。自分を束縛しているのは、自分の欲望なのだ。欲望が幸せにするのでなく、苦の原因であることを早くつきとめたいもの。少欲知足−はあらゆる場合の基準とすることが出来る。いやせねばならぬ。田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…しく直すがごとし。(田辺聖恵 訳) ◎反省と修養のない宗教は、欲と独善の追い求めで終る。また概念ばかりふりまわしていては逃避となる。現実の中でいかにおのれを正し、相互関係を改善するか、そこに真の宗教が現れる。己を正しくするということは、真理を基準を教えられ、それを納得し、毎日の己をそれで反省することである。宗教を選ぶのに、その云うところの真理基準を納得し得るかどうかで決めるべきであろう。そこから信者の道が開ける。田辺聖恵 霜うすく 人なかに和し 近い春 ブログランキング まじ…
…、一体誰が成仏したのか。禅宗で見性しない者は一体どうなるのか―。 このように具体的なそれぞれの到達の実際が明らかに評価されないと、十把ひとからげとなつたあいまいなものとなり、単なる自己満足になってしまう。達成目的、評価の基準が実際的に導入される時、初めて日本仏教も魅力のある、つまりやり甲斐のある宗教、信仰となるであろう。 (浄福 第73号 1979年10月1日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…限らない。又、信者がどのように熱心でも生きている間にニバーナは体得出来ないとある。もしニバーナ・解説を体験する時は出家をするか、生命を捨てねばならないとなっている。まことに厳然としている。それは絶対の境地を意昧するのだから。誰でも直ちにパツと成仏(理想者)できるなどといった甘い話などではない。それは事実の問題であるから。 (浄福 第73号 1979年10月1日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…である。 仏教修行の基本-最終目的-解脱(ニバーナ) 仏教専門の活動-無限理想-正導(成仏) 釈尊仏教はこの目的と理想とが一応分けられ、しかも統合一貫していたのであるが、日本ではこの二つを別々にしてしまったために、次々と疑問を生じざるを得ないようになり、今日のように社会がふり向こうともしないものになってしまったのである。 (浄福 第73号 1979年10月1日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…(南伝大蔵経第23巻小部経典一 法句経 二 不放逸品 21頁) 愚かなる者は、わがままにふけり、賢き者はわがままならざるを守ること、財産を守るがごとし。(田辺聖恵訳) ◎自由気まゝが身を亡ぼすことに気づくのに、自然とでは遅すぎる。そこに宗教という教育が絶対に必要となってくる。改革に名をかりて、外、社会のみを見ていると、自分を崩解させざるをえない。自己向上が自己主張の土台になっていないと、自他共に傷つく。自他への配慮なくして改善はない。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…物供養をもって、又、まわりの人々に施しを喜びとする信者の道がもっともっと讃えられねばならない。そうすれば、宗教者は本来の布教活動に立ち返り、互恵の喜びを持つことが出来る。葬式仏教として僧職者を儀礼者にしてしまったのは、信者側にも責任の一部分があると考えねばならない。真の宗教者を養い、いわば養成するのは信者群なのであるから。 (浄福 第63号 1978年12月1日) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…。こうした全くの信教の自由、個人生活のおゝらかさの上において、常識を土台とした宗教が成立する。四百人という集団自殺をもたらすというのは、全く常識が働く環境ではなかったということであろう。こうしたいわば信仰の犠牲者に対して冥福を祈ると同時に、真の在家道というものを明確にせねばならぬという釈尊仏教徒の使命を痛感する次第である。 (浄福 第63号 1978年12月1日) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…により、賢き者は、はげしき流れにおかされざる避難所を作るべし。(田辺聖恵訳)◎仏教とは努力向上を目ざすもの。努力によって悟るのではないが、努力の伴わない信、自己との斗いをうらづけとしない信は、絵に画いた餅。自分を甘やかすことで、この人生の荒波をのりきることはむずかしい。 防波堤は、つねに補修されねばならぬ。ブッダ世尊は依り所、避難所を作って下さった。しかし私どもは、その避難所でどう暮らすかで自己を確認せねばならぬ使命が与えられている。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…結果である。何故ならば、そうした結果をふまえながら宗教生活をしてゆくことこそ真の仏教だからである。そして、こうした結果を自分で予測する方法が述べられている。「三宝」を明確に知り、それに帰依し、自分に応じた修道をすれば、その結果が必ずあるという事だ。単なる観念論ではない。 では死後はどうかというと、その結果の延長である。特別の修道をしない信者にも、それなりの浄信に見合った安心が得られるのだから、まさに万人に開かれた宗教と云うことが出来るであろう。 (三宝 第164号) 田辺聖恵
…)だからそれを皆さんに伝える、というのが小学校教育でも普通の事。 目本の仏教は成仏の可能性や方法論を実に熱心に説く。だが私における到達結果、その実証において成仏を示すという方式ではない。 これは日本の仏教が思想哲学であったり信の強調であったりする事に原因の大半があるのではないかと私は考える。例えばハンニャ心経の解説書が無数に出る。何ら体得方法の載っていないこれを読んで、一体どんな錯覚を求めるのであろうか。 釈尊仏教は結果体得の実証の宗教である。 (三宝 第164号) 田辺聖恵