「経と律」 (下)

法の施しは一切の施しにまさる。法の味は一切
の味にまさる。法の楽しみは一切の楽しみにま
さる。愛欲のたちきりは一切の苦しみにまさる。

                    (法句経)
   『法の施し』
何かの神秘でも運命でもなく
総ては相関縁起して変化する
この理法ダンマは真実である
 この理法は釈尊によって施され
 何びとでも会得する事が出来る
 何にもました法味法楽の境地だ
この理法は仏教者によって施され
人々の間に広められるべきものだ
この施しは最上の施しとなされる

 「法の施し」―法を得た者は他にこの法を施し、この法を受ける者は財を施し、両者の施し合いによって仏教は成り立つ。この様に法を中心に施しの実行をする、この生き方こそ釈尊が導かれた、観念論ではない真の仏教である。

      「施し合いの生き方こそ釈尊仏教である」
縁起の法を信じ、固定観念を離れ、相関互恵を生きる様になれば、自分本位の欲望に振り回されての苦悩などは雲散霧消する。信の世界から実行の世界へ入る事で自己変革の仏教者になる。法の味わいは深まり、喜びは増大する。

アゴン経という釈尊の言葉を直接伝えた原始経典は、そのどこを見てもほとんどが法の話である。自然界も人間界も含めて一切が相関関係にあり、互いに影響を受けて変化しながら存在するという、もの事のすじ道を明らかにしたものが法ダンマ(縁起法)である。

普通の信仰は、神仏や天とか、人間を超越した神秘に近いものを偉大とし、それによって支配され守護される事を願うものである。それは立派な信仰でありそれで充足されれば真に結構である。だが中にはどうしてもそうした信仰になれない人も居る。二千五百年前、インドに生を受けた釈尊もその一人であった。そして真の依り所となるものは何かと求めた。まさに生命がけに求められた。

長年の求道の結果、一切の成り立ち、すじ道を発見された。しかし単にそれだけなら哲学、思想にすぎない。所がこのすじ道、理法によって自己が存在する事、さらに自分自身がそのすじ道そのものであることを会得された時、一大歓喜を経験された。こうして自己変革が完成、その変革のままに生きられたのである。

一切が相関関係にあって互恵し合うのが真理であれば、自らを他に施し、法を伝え導くことが、法の実行となる。釈尊はそのように法を実行して四十五年間、自らを他に施して生きられた。お弟子たちもその能力に合わせて奉仕に生きていったのである。

そのような実行に生きるためには、自ずから人間間の生活ルールが必要になる。観念的に救われるだけなら生活ルールなどはいらないとも云える。しかし釈尊の仏教は理想を生きることであるから、ルールをぬきにするわけにはゆかない。そこで最低五つの戒しめが定められていた。殺生・盗み・みだら・うそ・飲酒をしないという事だ。さて、どの様に優れた、あるいは自分に向くような法説であろうとも、真理法と規律法に照らし合わせて、それに反するものであれば釈尊の仏教ではないと、その判断基準を明らかにされた。

晩年に近い釈尊は、誤伝異説に対してご自分が立会えなくなる事を案じられての事であろう。何という慈悲、ご親切であろうか。
(三宝 第167号)   田辺聖恵