「仏教を一口に云うと」 仏教の原点

「仏教を一口に云うと」
      『願い』
貧しさがあれば それからぬけ出すよう
戦いがあれば どうぞ勝ちますように
平和であれば もっと豊かになりますように
 どうやらそのへんで 願いが止まるようだ
 平和になるように戦いをくりかえし
 戦いのたびに平和を願ってきた人類
今 思い浮かべぬばならぬことは
人間の本質に目覚めた人々が居たということ
その教えを学ぼうとしない己に気付くということ

  仏教の原点
「仏教とは一口に云うと、人間は愚かさから出発していることを気付くこと。」では気付いたらどうなるか。気付いた人間になる、つまり覚った人間になる。では覚ったらどうなるのか。覚った人間としての行動をするようになる。そういう行動をしたらどうなるのか。「われなすことをなし終えり」という心身の状態で終る。

仏教を特に釈尊の原点に立って云えばこんなふうになろうか。まことにあっさりしていて、何かそれではもの足らないように思うのが一般ではなかろうか。釈尊の当時でも、釈尊は人生の断滅を説く−と誤解して非難した者も居た。多くの人は、生きている間はより多くの幸福を求め、死後は、永遠の世界で永遠に生きられることを望むものである。これに迎合するのがご利益信仰であり、魂の永生という信仰になる。

釈尊は自ら「縁起」の真理を悟られ、自分のためには、もう何もする必要が無いようになられた。それと同時に、まわりを見ると、かっての自分と同じように、人間〜真理が分らず、たゞ自分本位ーの欲望を満足させてくれるような信仰を求めて、右往左往しているのが目に見える。何とか本当の事を教えてやりたいものだという慈悲の心を持たれるようになった。ではどのような人々にこの真理を正導出来るであろうか−とまず大衆そのものを分析なされる。

「すべての人を救う」とすれば話としてはスケールが大きくなるが、釈尊(仏けさま)はすべて現実に立脚して居られるから、そうした観念論から出発されることはない。自分が導かれようとする真理と、それを学習する者と、釈尊ご自身、つまりこの三者を客観的に観察してその可能性を確かめられる。だがその中で一番問題なのは、受け手、学習者がどうであるか−である。

けがれ多き者とは、あまりにも人間性から離れているということであろうか。宗教に縁がある、その条件として、ふつう云われるのは、順境と逆境である。生活が順調か非常に困難か。

 順境−満足、より以上を求める。むなしさを感じる・仏教そのものを求めるようになる
 逆境−ご利益を求める。批判的になる。仏教を苦しさから逃れる。手段として求めやすい

仏教は人間の本質や真理を追求するものであるから、生活上の苦しさにいわば追いまくられている時には、何か雲的な「力」になるような信仰を求める。一方生活にゆとりがあれば、趣味やゼイタクに心が向き、本当の仏教に行きつくことは難しい。

ではけがれ少なく、教え易き者とはどういう者であろうか。それは、ある冷静さをもって、自己を客観視できる者ということであろう。自己とは過去の生命の歴史にしっかり結びついている者ということであるから、事実認識が必要条件となる。

                『事実』
         己は己の主なり 他に依り所あらんや
          これほど厳しい言葉があろうか
           偉大なる力を人は求めるというのに
         一切は縁起し変転して止まない
          その事実をしっかりつかまぬことには
           すべての考え生き方は砂上楼閣
         この事実にたえられないものは
          何かに頼り自己の破綻を防ぐ
           それはそれなりに有難くもある道だ
(三宝 第106号 1982年7月1日刊)  田辺聖恵

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