生き方仏教 (上)

 「生き方仏教」(上)
仏け様が亡くなられるという話は、日本仏教のみを見聞きしておられる方にはピンとこないかも知れない。インドでも釈尊が亡くなられるという事に対して、それではわれわれ凡人と差がないではないかという疑問を持った人がいる。そしていや仏けの「いのち」は法の仏けとして永遠であると答えたお経が紀元元年前後に作られる。

そうした仏けの本質としての法の仏け、法の中に生きる仏けー如来という説明がこの原始経典の中に、釈尊のお言葉として出ている事は注目すべきことである。

私どもは生きた人間としてのブッダ釈尊に直接お逢いすることが出来ない。そのために、人間ブッダを強調すると何だわれわれと同じではないか、といった安易さを持ち、心底からの渇仰心を起こすのが難しくなる。また一方、理想化された永遠の仏けのみしか知らないと、仏けと云えどもその肉身性があり、その故にブッダとして悟る必要性があるという事が理解し難いものになる。

釈尊の仏教とは法を中心にするものである。従って肉体のある者が、この法を悟って自己変革をする。肉体がもともと無いものなら、別に法を悟る必要もないし、悟っても何ら変革は生じない。

仏教を習うという事は、肉体(苦悩)をもった釈尊が、いかにして真理法を発見し、その真理法と一枚になって、法の中を生きられたかを学習する事である。

だが人間を超越した神仏の力をあてにするという信仰の仕方では、お陰げはあっても自己変革が生じる事は期待される事がないだろう。何故ならば、お陰というか御利益を求める心情は、自分をそのまま良しとし、別に自己変革などは願わないものである。

初信的にはそれでもよいが、人間としての苦悩の根本を引きづってゆく事には変わりがないから、いつかは改めて大きな障壁に突き当ってしまう。そこからでも良いようなものではあるが。
三宝 第166号)   田辺聖恵

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