田辺聖恵 の検索結果:
…経 第23巻 小部経典一 法句経 二〇 道品 六〇頁) 説かれた道 おんみらこの道を行けば、苦を終らしむべし。そはわが毒の矢をぬきたるを知りて、わがおんみらに説きし道なり。(田辺聖恵訳) ◎おんみら−と呼びかけられているのである。他をふりかえることは許されない。決して安易な道ではないが、この道は確に苦がなくなる道である。人類はこの一点を目指して生きついで来たのである。毒の矢とは、煩悩のこと、この矢がぬける確実な道が、説かれているのだ。聞かねばならない。先入観を捨てゝ。田辺聖恵
…具眼者最も勝る。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二〇 道品 五九頁) 釈尊仏教 道の中にては八聖道、真理の中にては四聖諦、法の中にては欲をはなるゝこと、人の中にては具眼者こそ最上なり。(田辺聖恵訳) ◎縁起の真理を根底にした真理構成ー四つの聖なる真理、それを学習・体験化する修道が八聖道、そして知情意を完成して欲を処理することがぎりぎりの仏教。この真理と実習が少欲知足の結果を生む。そのお手本、釈尊こそ一切を観る眼をもった方。人の中の最上の方が仏陀、仏けさま。田辺聖恵
…みにても、または心の純一を得るのみにても、静かなる住所(臥所)にてもそれのみにては、凡夫のうけ得ざる遠ざかりの楽をわれは体得せず。煩悩をほろぼしつくさざれば、ビクよ、心を安んずることなかれ。(田辺聖恵訳) ◎持戒、聞法、静思、静居は条件である。愚ち、欲、怒りと斗うには勇猛心がいる。持続心がいる。その積極性の中から安心が生れる。逃避や消極の中には真の仏教はない。已に勝たねば自覚、覚他の大道は歩めない。それは無限の道、己をささげつくす道、已の安心すら捨ててしまう道だから。田辺聖恵
『実行の仏教』 覚りや救われが得られなくてもいい 少しでも自分中心が愛他優先に変わり 互恵真理の実行をする事が仏教だ 法の習得行をし 法の施しをする仏教者 仏教者を支持し 財の施しをする仏教信者 敬愛によって互恵真理を実行するのが仏教 美しい言説も実行せざれば実らないと 自ら実行に生きた釈尊は 実行を説く 人間存在の充実は実行にしかないからだ 田辺聖恵
…の故を以て、聖者たるにあらず。一切の生類を害せざるの故を以て聖者と称せらる。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一九 法住品 五八頁) 不 殺 生けるものを殺すは聖者にあらず。すべての生けるものを害せざるものこそ、聖者と呼ばるゝなり。(田辺聖恵訳) ◎世界平和を叫ぶのは容易。しかしそれは、不殺の基本の上に於いてでなければならない。幸福な生活を制限しない限り殺生は止められない。繁栄と平和は相反するもの。この二つが同一線上という錯覚からは、欲望と斗争しか生れない。田辺聖恵
…。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一九 法住品 五八頁) ムニとは 愚かにして、無智ならば、たゞ黙するのみにては、ムニ(寂黙者)にあらず。はかりにて計るがごとく、すぐれたるをとる者は賢き者なり。(田辺聖恵訳) ◎真理の体得者は、言を要せず、沈黙の聖者ムニとなる。しかし何が真理正法であるかを明別する工夫が無ければ、単なる思いこみ。そこで師を求める必要がある。師を通さぬ仏教は我田引水。小智から大智へ、形からその中味へ、そして大衆の世界へ下がらねば本物ではない。田辺聖恵
…たがいて苦は生ずるなり。このわずらいを見て一人遊行なすこと犀牛の如くせよ。(田辺聖恵訳) 愛恋の情を、人間らしいという。それは人間の全くある一面にすぎないのに。一切の因に一切の果がある。この例外なしの世界にあつて、大いなる愛情を求めねばならない。一人で遊行する精神の高さ、戒律を守る自制の確かさ、ここに人間の高貴さがある。己をまともに批判できることが遊行の精神である。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…に比丘と称せらる。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一九 法住品 五八頁) 善悪を見る この世にて善悪をしりぞけ、清き行を修め、正しく見て世間をわたるものこそ、ビクと呼ばるゝなり。(田辺聖恵訳) ◎善悪に対して明々白でなければ、その次の段階の清き行への熱意もわいてこない。正しく見る目、それは半眼にして鋭敏でなければならぬ。世間の善悪に無関心であるのは、己を立腐れさせている証拠。清き行こそ、日常善を導く正導行、施の一道、生き生きとした生き方の基礎というべきか。田辺聖恵
…第23巻 小部経典一 法句経 一九 法住品 五八頁) 出家性 大なり小なりすべての悪をしずむる人は、もろもろの悪をしずめたるがゆえに、出家と云わる。(田辺聖恵訳) ◎形だけの出家すらヘりつゝある。一方、形は出家でなくても、悪に対して、心を使い、立ち向い、しずめてゆくところに、真の出家性が現われる。形と中味が一致するのか望ましいのだが、まず、内心の悪に対して鋭敏にならねばならない。悪と斗う出家と仏け、それから逃げないのが真の仏教。己と悪をぬきにしては単なる評論、騒論。 田辺聖恵
…どは望みがたい [先祖供養] 先祖を大事にし、その足らない分を補ったり、今日を感謝する事は子孫として大切な事である。だがそれは親子の道であって信仰や宗教ではない。人間としての究極的な問題に関しては本式の信仰や宗教が必要である。 『先祖供養は宗教の代行となり得ない』 供養とは生きている宗教者などに食べ物をさし上げる事が本来の意味であったが、日本では権力者が宗教者を養ったので、一般信者が供養する習慣を持たない。何か願い事をする時にのみお賽銭を上げるという取引になっている。田辺聖恵
…得んと願うことなかれ。いわんや友をや。 一人遊行なすこと犀牛の如くせよ。(田辺聖恵訳) 殺生をしない、これが至上命令でなければならないのに、一殺多生などというものが多すぎる。誰が殺される側に立ちたいか。生死を超える者のみが真の生地を知る。わが子、わが友を求めていては生死は超えられない。己の生死にこだわる者は、他の生命をふんだんに踏みにじり易い。そこに絶対平和がある。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…一九 法住品 五七頁) 出家への近接 髪をそりおとしたとて、規律を破り、いつわりを云うものは、出家にあらず。はげしき欲望あるものいかで出家たらん。(田辺聖恵訳) ◎本物の仏教とは、出家への接触である。真実の浄心へのあこがれである。み仏けとは出家である。この出家性をぬきにしてみ仏けをのみ求めるのは、ご都合主義に外ならない。自己中心の引寄せにすぎない。愛欲を通かこしたまことの出家、仏けにこそ、こちらの愛欲を托することが出来る。形ばかりの出家から、真の出家への待望が始まる。田辺聖恵
…第23巻 小部経典一 法句経 一九 法住品 五七頁) むなしき老い 髪の白きによりて長老にあらず。年のみ熟したるは、むなしく老いたる人と云わるるなり。(田辺聖恵訳) ◎長生きの時代となった。たゞそれだけで喜べるか。ふり返ってみて恥じ多しとうそぶくのみなのか。一生を完結させるためには、一体何が必要なのか。求道なければその一生は水泡。福祉行政が多忙となるのは、法に遠ざかる者が増大するということではないか。仏教もかなしさがかみしめられるのでない限りまだ本物に遠い。全く遠い。田辺聖恵
…住品 五七頁) 多弁の妄 多くを語る声ゆえに、法を保つ者にあらず。聞くこと少くとも、身をもって法を知り、法をふみはずさざる者こそ、法を保つ者なり。(田辺聖恵訳) ◎多弁の民主主義。不自然なまでに自己を主張するからか。己の真実を知る者は左右に気をとられる必要がない。その真実が通用せぬ世の中であればそれは百鬼夜行の地獄道。法を身につけようとするならば、少く聞くことが肝要。しぼって、集中して聞くこと。その土台に信が無ければそれもかなわぬが。法は身につけ実現実践する以外なし。田辺聖恵
…品 五六頁) 法に住む 性急ならず、法により、正しく他の人々を導き、 正法を守る知恵あるものこそ、法に住む人と云わるゝなり。(田辺聖恵訳) ◎法の基本(三宝)を身につけ、それから他にそれを正導する、これこそ仏教者の真の生活。金銭、家庭、仕事もすべてこの法に住む為の通過、手段。最大のあやまりは生活のために法を利用すること。已に引き寄せ作り替えてみてもミノ虫のようなもの。信に徹するとは已が法に吸いこまれることである。分別から無分別へ。それは正導の実践をしてみねば分らない。田辺聖恵
…喜び、如来には虚妄なし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一八 垢穢品 五六頁) 真実への道 大空に道なく異教に出家なし。人々は障碍(邪悪)を好み、如来には障碍なし。(田辺聖恵訳) ◎仏教における道とは、障碍の世界から脱出し、真理の世界にゆく道である。その真理が実現する世界が真実である。理即実。障碍なき、仏陀・三宝へのあこがれがまことの信仰。信は道の第一歩、それから踏み出すには更に信行(修道)への熱烈さが必要。障碍とは真理へ進むさまたげとなる愛欲煩悩のこと。田辺聖恵
…部経典一 法句経 一八 垢穢品 五五頁) 清らかに生きる 恥ずる心あり、つねに清らかさを求め、ものごとに執着せず、謙虚にして清らかに生きる知恵あるものにとりては生活はかたし。(田辺聖恵訳) ◎出家宗教者の生活はむずかしいか。それは物質生産をせず、精神の価値生産をするからである。大衆はその精神の価値を求めるとは限らない。己のあり方をつねに反省し、恥じないようにするには、よほどの厳しさだ。それが宗教者を本物にする自然の方法。物の豊かさに最も遠くに居ないと知恵は恵まれない。田辺聖恵
…生活は安易なり。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一八 垢穢品 五五頁) 嫌われもの 恥じることなく、あつかましきカラスのごとく、無遠慮、大胆、ごう慢にして、けがれたる生活はしやすし。(田辺聖恵訳) ◎自己本位に暮らすことを民主主義とすればまさにカラスの衆合。二千五百年前から見通されては日本人の面目まるつぶれ。人から嫌われかげ口され、生きている中から値下げ−では全くはた迷惑。せめて冷汗はかゝない位の配慮を常時持ちたいもの。浄心で暮らすのがますます困難になる。田辺聖恵
…穢品 五四頁) 読みとなえざるは聖典のけがれ、勤勉ならざるは家庭のけがれ、(化粧の手入れをせざる)おこたりは、(美しさが失わるゝ)けがれ。子らのわがまゝは守護者たる親のけがれ。(田辺聖恵訳) ◎読経とは分らせて頂くこと。呪文ではない。出家在家に一貫するものは精進努力。己の道を邁進することである。在家者が勤勉に働き、子を養育し、法の道に近づかせ、出家を財施して支持し、その法施を頂くところに両者の勤勉な互恵関係がなり立つ。仏像礼拝を主にすると、仏教は堕落して空中分解する。田辺聖恵
… 一八 垢穢品 五三頁) より所ありや おんみみずから已のより所を作れ。すみやかに努力せよ。賢き者となれ。心の垢をおとし、けがれなくば天の聖地に、おんみはゆくならん。(田辺聖恵訳) ◎死を目前にして、已が何一つ頼れるものを持っていないことを一日も早く気づくこと。 甘やかしてはくれても叱ってはくれない。だから有難いのかも知れない。気づくのは結局己しかない。死は己の持物であり、死とは已の死だけなのだ。これに目覚めるのが仏教だから、全く日常が仏道。何しろ毎日死んでいるのだ。田辺聖恵
…なし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 十七 忿怒品 52頁) そしりと讃え ひたすらにそしらるゝ人も、ひたすらに讃えらるる人もなし。いにしえも今も、未来にもかかる人なし。(田辺聖恵訳) ◎自已に原囚があって、又なくてそしられることがある。熟考すれば必らず原因は已にあるものだ。問題は讃められる時、慢心を持たないことの工夫だ。自慢、高慢、卑下慢、我慢と慢を戒しめ、已を正当に見ることの難しさ。他人の評価に左右されない目已確立こそ、真の仏教が目ざすものである。(田辺聖恵)
…者を、親族・朋友・知己は歓び迎ふ。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 十六 愛好品 51頁) 帰郷 久しく不在にして遠方より無事に帰れる人を、親族と友人と知人は喜び迎ゆ。(田辺聖恵訳) ◎精神不在、己を失って、たゞ物欲と愛欲のみに落ちこんでいても、その果てにむなしさがおしよせてくる。真の仏教とはこれら欲望への希望の宗教ではなく人間究極のむなしさにどう対処するか−である。これが大人の宗教と云われるゆえん。こうして真実に目覚める時、この人は真の家庭から迎えられる。田辺聖恵
…なし。されば天よ、雨を降らさんと欲せば降らすべしと、世尊は仰せられたり。(田辺聖恵訳) 金のために、愛欲の満足のために、汲々として一生働き、それが束縛であることに気付かない。経済繁栄を最高道徳と思いこむ集団主義。しかし断固としてこの一群をぬき出る真の生き方、自然のままに生き、人々を正導する旅を続ける絶対の生き方こそ、ブッダの生き方であることを礼拝して学ばねばならぬ。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…典一 法句経 一四 佛陀品 四六頁) 楽しきかな 諸仏のあらわれたもうは楽しきかな、正しき法を聞くは楽しきかな、サンガの和合なすは楽しきかな。和合せる人々の修行は楽しきかな。(田辺聖恵訳) ◎諸仏とは別々の仏けではなく、皆同じ仏けということ。平等に徹したのが仏けだから。 平等の仏け、平等の真理、平等の仲間この一切平等が仏教において現れる。まさにたのしきかなである。理想に一歩でも半歩でも近づく真の学習修行は楽しい限り。仏様の笑顔をみつめ、あこがれ吸収しなければならない。田辺聖恵
…されば天よ、雨を降らさんと欲せば降らすべし、と牛飼いのダニヤは云えり。(田辺聖恵訳) 働いて仕事にも満足、家中に悩み事なくして家庭円満、雨漏りもせず、何不自由がないと。昔も今もマイホーム主義。しかしそれがそこまでの限界ということに気付かず、やがてはその幸福も崩れるということを気付かない。確に動物よりはましだ。だが人間の本当の価値はそこにはない。酔生夢死と変りはない。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…正智によりて四種の聖諦を見る。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一四 佛陀品 四六頁) 三宝帰依 ブッダとダンマとサンガに帰依なすものは、正しき知恵にて四聖諦を見る。(田辺聖恵訳) ◎信・帰依の心がなけれ仏教徒でない。その信が三宝に向けられねば釈尊仏教ではない。信・心情がなければ知恵は開発されない。今日は知能が優先し、知能だけで分る分らないと言いあっている。知恵までゆきつくはずがない。釈尊仏教の知恵とは四つの真理、それを活用して真実に生きるということである。田辺聖恵
…ことなし。されば天よ、雨を降らさんと欲せば降らすべしと、世尊は仰せられたり。(田辺聖恵訳) 家庭にある信者は、たゞ幸せであればよいのだろうか。その幸せのもろさに早く気づかねばならぬ。そして人間としての最終のあり方をもし望むなら、この解脱して住することである。その住も与えられるまゝの住。雨が降り、漏っても構わず、一切によりかからずに生きること。己を自在に調節しながら。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…れ諸仏の教なり。 (南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一四 佛陀品 四五頁) 仏の教え すべての悪をなさず、善を行い、おのれの心をあまねく清むる、これ諸仏の教えなり。(田辺聖恵訳) ◎行動なき人生はなく、行動なき宗教はない。人間の本質、真理正法を行動することによって心は浄化されてくる。信とは行動の始点。信を行動によって実らせるのが仏教。悪をおそれ、善にいそしむところに生々とした生があり、さらに真理行動をするところに、生を超える浄土が展開する。知と信と行の世界。田辺聖恵
…(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一四 佛陀品 四五頁) かたきこと 人と生まるるはかたく、生命をながらえるはかたし。正法を聞くはかたく、諸仏の世に出でたもうはかたし。(田辺聖恵訳) ◎どの宗教でも、生かされているという有難さに行きつく。しかし仏教は真理の正法をそれ以上に有難いものとする。正法を聞・思・修するのでなければ、単なる生存の喜びで終る。真に生かされるということは、生命を超えるもの。そこに諸法の世界がある。聞信正法に徹すればそこはいつでも浄土の世界。田辺聖恵
…。されば天よ、雨を降らさんと欲せば降らすべし、と牛飼いのダニヤは云えり。(田辺聖恵訳) 夫婦の愛情とモラルが乱れなければ幸せの第一。このダニヤは雨もりもしないから雨が降ってよいと云う。家庭というものはそうあるべきであろう。欲に走りすぎなけれぱ、何びとも満足を得るのはさほど困難ではない。たゞ問題は相手によってという条件つきの幸せであるから、そのもろさを忘れてはならぬ。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ