「お浄土とは何か」 (その二)

「お浄土とは何か」 (その二)

単なるおたとえでない象徴

極楽国土には、種々の飾り、種々の宝が満ち満ちていると、書かれているのは、やはり事物の姿というよりも、心の世界-法の世界を価値的に象徴してあるものと、とるべきであろう。

インドには美しい宝石が多出するから、宝石でたとえるとイメージがわき易い。又インドは暑い所だから、清涼な所という表現がよく使われる。太陽が昇ってくるのはやりきれないが、陽が沈むのは有難いのである。そこで月の光りをみ仏けの慈悲としてたとえる場合が多い。中国式に云えば山紫水明、日本式に云えば、梅の花が香るとか春風駘蕩というところであろうか。実際、日本の禅の曹洞宗には梅花流というのがある。

東洋は、自然で、心象を象徴することが多い。お浄土が自然物で象徴されるのは、たゞ単にたとえ話というわけではない。仏教はもともと『諸法実相』という考えを土台にしている。諸法とは、もろもろの現象・事物ということであるが、それが真実の姿、形=相を現わしているということである。つまり現象界をぬきにした、まるきり別個の観念の世界とか、あるいは神の世界とか、法の世界を立てるのではない。人間を含むもろもろの現象、物及びものごと、事柄がどうなっているのか、その中に含まれる真理を追求するものが仏教なのである。

真理・法が世界を支配しているのでなく、物とものごとが限りなく関係しあって連鎖的に反応し、変化してゆくという、その関係性・変化性を理としてとらえるのである。従って、物で象徴するとい うことは、単なるたとえ話や作り話ということではない。

後期仏教の真言密教となると、この象徴の方に更らに力を入れて、事物による(人間の肉体も含めて)象徴こそ仏の現われであるとみるようになる。それは人間がどうであるか、ということよりも、仏がどうであるか、ということの方に重心がかかっていると云えよう。

その点、原始仏教ではー人間は何であるか、どうであるかという方に比重を置いていると考えられる。キリスト教の教会も、大変な善美をつくすようであるが、これも神の現われを願う心によるのかも知れない。

人間の本賃を求め『空小屋にてこと足るべし。』とされた釈尊の精神、ガラン殿堂式の主義にならないようにされたことを、今日ほど強く考えねばならぬ時はないであろう。大寺院が観光地化することによって、大衆から仏教はますます遠のいてゆくという、今日の実情を思わねばならない。寺院で入場料をとるのは日本だけだそうで、外国で遺跡の入場料をとるのはそこがすでに死んでいるからなのだそうで、日本の観光寺院は死にかかっているということか。

さて、浄土の衆生は何をするのか。妙なる花を諸仏に供養するとある。お浄土にはアミダ仏お一人かと思ったら、諸仏が居られる。これは、浄土に往生した先輩たちが、それぞれ仏けになって、沢山居られるとも考えられる。するとあなたも先では仏けになれるぞという証例がおるということになる。又、アミダ仏の浄土以外のところに居られる仏けさまも供養するという風にとれないこともない。

沢山の仏けの国がおると記されてあるのだから、そこにも交流を開くと考えれば、それぞれの国、それぞれのグループが、互に交流しあうという、今日的な開かれた社会を意味するととってもよかろう。この経典にそのような意図がこめられているとは思えないが。

浄土の衆生は、食事をなして念じ歩む-とある。

これは、仏教信仰者がとかく観念論だけで、現実から逃避しやすいことを戒しめることのように受けとることも可能である。食事をとるということは、人間にとって具体そのものであって、この食事をする排泄をするという具体をぬいた仏教論は、ホンモノではないことを示すといってよかろう。食事をするとは、己の本分をつくさねばご飯は頂けないということであり、排泄するとは、きたならしいこともさけられないということである。

それは肉体をぬきにした、(現象をよけて)霊魂だけがゆくと決めてしまうのではないのである。仏教とは、現実そのもの(常識的日常生活)ではないが、現実をぬきにし、それから逃避するところにあるものではない。それは隠遁である。この隠遁は、相互互恵、一切が恵みあい助けあいになっているという。仏教真理観に反する。

食事をするという、己の現実の身心を土合にして浄土をとらえると、そこで何を教えられるかということが分ってくる。

 浄土で何をするか

五根、五力、七ボダイ分、八聖道の法を学習するのが浄土である。このシャバ世界で苦しい仕事をせねば生きてゆけなかったのが、お浄土にいったら楽が出来ると思ったら大間違い。全心身を投じて、仏教の学習をしなければならない。その五根とは何か。

 五根-信・勤・念・定・慧。

信とは-まごころ、み仏けのお教え、正導、救いはいつわりでなく、本当のことだとはっきり思うこと(感情)
勤とは-精進、努力。仏教の学習にせい出すこと。
 念とは-正念。仏教の真理(慧―知恵)を強く思い、又思い続けること。真理へ集中すること。
 定とは-正定。正しく精神を安定させ、真理と一体の状態を持続すること。
 根とは-人間としての土台、能力。人間そのもの。
 慧とは-覚り、知恵。仏教真理を完全に学習し。体験し、真理による理性と感情の安定到達をし、そのような生活を行い、これを他に正導すること。

五力とは、この五根がはっきり体得されて力となるほど強化された状態。この五根、五力には信というものが第一に掲げられている。

ま心がないことには話にならない。又必らず慧(覚・お浄土における完全な救われ)にゆきつくことが出来ると思つて疑わないことが求道の原動力となるものである。

七ボダイ分とは、ボディ(覚り)にゆきつく七つの方法過程、八聖道は専門的に求道するようになった者への、覚りにゆきつく八つの聖なる道である。道とは、実践実行である。まずこれらの覚りにゆく道を説明して貰うということが、浄土にいってからの第一のことである。すると、熱心に仏教の話に耳かたむけるというのは、浄土に居ることだと云ってもさしつかえないことになる。それはこの世での、うらみつらみを忘れ、それどころではないと、ひたすら法の世界へあこがれるという心なのだから、損得、好き嫌いだけのような世俗の世界からいわば離陸し始めたということになる。

この五根ないし八聖道は、原始仏教で毎々最も熱心に説かれるものであるが、大乗仏教の特徴であるとされる六度の道は説かれていない。これは初期の大乗経典であることを示していると云えよう。

又、出家して悟ったアラハンの聖者と、在家の求道者ボサツとの差別なども明確にしていない。これら、一様に成仏をめざすものと考えられていたからかも知れない。

さて、このような修行を浄土ですると、はっきり説かれているのに、いわゆるお説教では、そのことにふれないのは、そのような修行は、聖道門であり、自力教だから、われわれには不向きであるという選択から否定したことによるのであろう。

確に、家庭生活にかなりの時間をかけ、心もまた家庭的に幸せを求めるのが強い人にとっては、五根~八聖道は到底不可能なことである。しかし、お浄土にいったならば(求道の目覚めに立ったならば)これらの修行をするものだということを明らかにしないと、少くとも経典に反することになろう。それではこの経典にアミダ仏の事が書いてあるから信ずるのだということと、その往生してからの事は無視するという身勝手な取捨をしてしまうことになる。

そこでこの八聖道の解説がされねばならないのだが、その簡略、入門が五根であるから、そのようなものとして省略する。これは、出家求道者の専修の道であるが、それを聞信し、なるほど、それによって『縁起の法』は悟れるはずだ、それこそ釈尊が説かれた道であるとはっきり知った上で、さて私は、そのような道が現在歩めるか、という自己へのあてはめがなされねばならない。

Nという浄土門に熱心な故人が、八聖道によって悟れたのは釈尊だけだから、他の者には適当でないといった立論を沢山の書物で発表しておられたが、これは原始仏教を聞きかじったが故の暴論である。これでは浄土門を強調するあまり、かえって浄土門をけがすことになってしまう。

浄土往生の目的と条件であるが、いわゆる1お説教では『往生疑いなし。なぜならばアミダ仏の本願がかけられているからだ。』ということがよく云われる。この場合、浄土往生が目的、本願によってということが条件、手段ということになる。条件がなければ目的は達成できないから、勿論大切ではあるが、その目的が明らかでないことには、そこにゆきたいという意欲はわいてこない。誰でも、デパートに行って何を買うか、という目的がはっきりしなければ行く気にもならないというのが人間の心理であり行動である。

今の大学が大学に入ることだけを目的としているために、入学したら、まず一年は遊ぶという話をよく聞く。つまり大いに学問をするという目的を初めから持っていないのだから、入学したら目的喪失の人間になってしまうのである。それが六三三計十二年の学校教育の総決算だというのであれば、何ともはや、莫大々浪費ということになる。もっともこの位の大量浪費をやらないと、生産が余って困るということなのかも知れない。

浄土にいったら何をするのか、浄土にゆくということは何を意味するのかを明らかにすることが今日大いに大切である。
三宝 第79号 1980年4月1日刊