「導」の必要性

「導」の必要性

体得したらどうするか
仏教は、何を目的とするか−仏教に関わる時これがいつもまず第一に考えられねばならない。人間は、目的的行動存在である。その人間が仏教を考えたま、それを実行したりする時、仏教の目的と、人間というか己自身の目的が一致しなければ、平行線であったり、交叉したりで、真の合致がない。従ってそれは、教養とか趣味とかにはなっても、生きる力や、生きる意味につながったりはしない。

たとえば病気直しや、商売繁昌を求めている時に、覚りの本格仏教を聞いても、全くかみ合わない。仏教者の中にも、病気を直せないようなのは宗教ではないと云って、四柱推命学や祈祷力や暗示力をしきりに使って活躍?している人があるが、少なくとも釈尊仏教とは天と地ほどの距離があるものと云えよう。

祈祷力や感応力は、いわば人間の心力範囲内のことであって、神や仏けの力というわけにはゆかない。そうしたアイマイさをつねに持ちこんでいるのが、日本仏教だとしたら、それは大いな反省と浄化を必要とする。

正導 = 何を 目的・方法  いかに−実行をもって

これが釈尊仏教の基本型である。仏教の目的は、最終目的としては、覚りである。その目的・覚りに行きつくための方法は、代表的に云えば八聖道である。この目的に向うべく、八聖道を実行することによって、他に正しく導く、これが正導である。

釈尊は正覚されてから四十五年間、この正導の旅をなされた。つまり自ら先方、対象の方に歩き進んでゆき、積極的に縁を作られたのである。これが仏教のすべてであるから、これを真似るか、近づくか、あるいは信者としてあこがれるかしかない。仏教者とはこれ以外の生き方、いわば複雑不純さをいかに整理して、単純、浄化してゆくかということである。自ら実行せず、出来ぬことを他に導くことは出来ない。

では、仏教の「何を」というのは、先に記した「教・行・証」 (三学)この三つ一組である。その中の教を、簡単に説明すると「一切は縁起する」という真理を分るようにするということである。縁起とは、釈尊が常用された専門語である。縁起とは。ある因があって、それに縁が関係して、新らしい結果を生むということ。

  縁起 = 変化 ← 相関  → 互恵

一切は相関関係にある。であるからこそ影響を受けて変化もしてゆく。その影響しあうことが、お互いのプラスになる。人間の場合であれば、人間の意味、存在する意義をお互いに知りあうようになるから、相互に恵みあうことになる。これが互恵である。これこそ生命体としての生き方に最大の関わりのある原理である。

従来とかく仏教は、世の移り変り、無常を、はかないもの無情と受取る、あやまった受取り方がなされたが、本来の釈尊の仏教は、そのような生きることへの逃げ腰的なものではない。もっと人間の存在意義を明確にし、それを実行し、貫ぬき通すもので、最も積極的な生き方を実現してゆくものである。

さて、そのように仏教の覚りというものが、真の自己充実をはかるものであるが、覚りというものを、一切は変化し、常住不変のものはないという一面だけでとらえれば、一切は当てにならない、当てにしないという一種の超然とした生き方が出てくる。しかしこれは、覚りの表だけを見てまだ裏を見たことにならない。

その裏とは、一切は互恵関係にあるということだがら、その互恵の実践、縁ある人にプラスになってゆくという面を実践しなければ覚りの実践にはならないのである。覚りというと、観念的にこうだ、その観念が実行となった時にホンモノの覚りになるのであるから、単なる観念ではない。この行動的な生命体としての覚りのとらえ方が、どうもうすいように思われる。

生死を超越するーということは、生でも死でもない人間存在になるということではない。仏教を習う前の自己中心的な生き方をやめて、互恵的な法、真理に根ざした生き方をひたすらに生きるということである。

人聞成熟の生き方
仏教のいわば良さ、有難さが分かり、それを自己のみの独善的な生き方とせず、互恵という真理内容そのままに生きようとするならば、それは人間としての最高の成熟した生き方となる。

その場合、自分が体得した仏教の良さ、有難さを何とか人に伝えたいという使命観をもってするのは、悪くはないが、気張りとなり、己の使命観という自己の立場から相手を見るために、相手がよく見えず、おしつけになりかねない。ここに使命観意識の問題点がある。

又これを伝えることを生き甲斐とするというも、生き甲斐とは喜びということであるから、自分の喜びのためにするという独善性が出てしまうのである。互恵とは、相手にもプラス、自分にもプラス、これが自然界のありのまま、自然の法則のままということで、独善はあってはならない。

それは人間(自然でもある)そのものの、おのずからそうなってゆく、まことにそうなってゆく、という必然というか真然なのである。そこには、ことさらの気張りも、喜びもない。これが導の本質である。ま心をもって。淡々として、実践するのである。

知れば、教えたくなるーこれは、正常な人間の、正常な心理である。これを少し徹底させれば、仏の覚りが正智であり、これを伝えたいという心情が正慈悲である。仏様の場合、これが大智であり、大慈悲となる。

一切は変化する。互恵関係にあるという認識理解の理性、これを実践したいという意欲によって実賎することが感情、これが知恵と慈悲である。この二面がそろって覚りであるから、知から行動へという連関的行動理解、とその実行が仏教である。その意味で現実的行動をぬきにした仏教などはないのである。

ここで、釈尊が弟子らに宣言された行動を考えてみよう。人天の一切のきづなーとは何か。天とは神々のことで人間と神様たち、その神様とは、人間が善行をした後で神に生まれ変るという神である。

仏教で云う神とは、キリスト教のような創造神、最高神でなく、人間より少しまし、善意的存在、幸福な存在ということである。しかし、これも幸福へのこだわり、執着、きづながある。それを脱出したのが覚りであり、救われである。

釈尊は自ら、正導という最も宗教的生き方をなさると同時に、弟子衆にこの生き方を命令される。勿論されなくてもそうするのが覚りである。

では、何を正導するのか。病気直しや物的ご利益の導きをする信仰団体は多い。そこで正しい導きとは何か、ということになる。正しい導きとは、正しい内容を導くことでなければならない。正しいとは何か。ここで仏教的哲学が必要となる。いや仏教の覚りがそもそも正しい真理の認識体得であるから、仏教真理を伝えることが『正しい』ということになる。このような正導をするのに、じっと人が来るのを待つのではない。旅をするというのは、誰という、いずこというはっきりした目的をもたず、ご縁に従い、又、ご縁を積極的に作ってゆくものである。

縁を作るというのは、法縁。法への導き、法を説き明かし、相手のものたらしめる、その人自ら求めるものにするということである。

では、その法の説き明かし、正導はいかにしてなされねばならないか。意義(意味合い、わけ)がよく分るようにすること、そして文句(コトバが分るように整ったもの)が相手に応じて使われねばならないということ。難しいコトパを覚えると、とかくその言葉で伝えようとするのを、自分自身のコトバに直し、また相手が理解出来るコトパに直すことが大切である。漢文、漢文字のままでゆくととかく文字面でいろいろな喰い違った授受となりかねない。しかもコトバでは云い現わせない体得の境にまで言及せねばならぬのだから、よほどの配慮がいる。

そして、仏教はたゞこのように思うという観念論ではないから、生き方そのものが滑らかな実践になっていなければならない。さん悔や感謝報恩の清浄行となっていなければ、真の伝達は出来ない。

次に、誰でも法にストレートに入れるものと思ってはならない。あまりにも法縁に遠いものは、今世では間に合わないという理解がないと、相手や世間を非難したり、自己の無力感に悩まされたりする。極大を願わず極少に委縮せず、いわば三宝を念じ、三宝におまかせしながら、しかも全力を尽してゆくということが相手への認識であり、正導であろう。

ここで二人して一つの道を行くなかれーとある。これは仏教者というものは、世間的には独個、自立、法によって立つものであるから、ひとをあてにしたり、依りかかったりしないで行くということであろう。たとえひとがどうであろうと、私一人はこうせざるを得ない、このように「せしめられて」行くということが正導の旅においても生きていなければならないということ。しかも。その旅そのものが仏教者の生き方そのもの、毎日毎日、一ケ所に定着してしまわない、一所不住なのである。

北方仏教になると、己の覚りより他を先に悟らせよーとなってくるが、それは、己れの覚りが基本であってのことは勿論である。こうして正導の実践によって、己がいかに分っていないか、未到であるかが知らされ、次第に己が深められてゆくものである。
三宝 第93号 1981年6月1日刊  田辺聖恵

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ 人気ブログランキングへ