釈尊の聖言 「濁り心」

釈尊の聖言 
「ビクらよ、濁れる沼地に立てば、池の底の真珠の貝も黄金の貝も、小石も魚の群れも、動くもの動かざるもの、すべて見ること難し。
 ビクの心、濁りてあれば、自らの利を知り、他の利を知り、自他共通の利を知り、聖なる智見を現わすこと難し。」
「濁り心」
◎地位・名誉財産・愛欲その他の激しい欲望感情にとらわれているならば、それは濁り心である。自己本位の心であれば、自分及び自分のまわりを冷静に客観的に視ることは出来ない。事実認識がまともに出来ないならば、認識を土台にして行う価値判断も出来ない。とかく一種の興奮状態をよりよき熱心な信仰としやすいものに較べて、仏教がいかに清澄な心をめざしているかゞ分る。
◎智見を現わす−とは真理基準を知り、それと比較してものごとの価値判断をするということである。そのためには、興奮しやすい感情をさしはさまず、深い知性(智)をフルに働らかせねばならない。
 視る−知る−考える−判断する−決断する−行動する。自他共通の理〜互恵真理が真の利益、価値ある幸福をもたらすことを知り、かつ実現するのが仏教。
 そのためにはまことの友情、慈悲心が裏うちされていることは勿論である。真の知性なくして覚りはあり得ない。  

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